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土日はゆるゆる過ごした。
金曜の夜に感情を吐き出したから、心は凪いでいた。
月曜を迎えて、さすがに落ち着かなくなる。
出勤の準備をしながら、どのタイミングで話ができるのか、きちんと想いを伝えられるのか、どんな言葉が返ってきても冷静でいられるか、不安ばかりが押し寄せた。
ただ、希望がないという意味では、浮き沈みすることはない。
これは次に進むための儀式。巻き込んでしまうのは申し訳ないけれど、乙川くんでなければ終わりにできないのだから仕方ない。
いつもの十分前に家を出た。
一本早い電車に乗り、職場まで揺られていく。
今日でおしまい。たかだか二十数年の人生だというのに、とても長い道を歩いてきた感慨を覚えた。
予想どおり、午前中は話をするゆとりなんてなかった。
乙川くんの横顔をチラチラ気にしながら、早く楽になりたいと考える。こんな状態だと、私はまたミスをしかねない。
意識を鋭くして働いた。
いつものメンバーで昼食を取りながら、さっさとケリをつけようと決断する。用事があるからと席を立ち、乙川くんを探して課に戻った。
だが彼はいない。
その場にいた後輩に聞いてみると、給湯室に向かった、という答えが返ってきた。
廊下を歩いていきながら、ドキドキするのを抑えきれない。
会いたいような会いたくないような複雑な気持ちになる。
ここで引き返したら、いままでの私と同じ。どうせ迷惑がられるのだから、開き直ってしまえ。
給湯室の入り口が見えた。胸がさらに高鳴る。
緊張しながら近づくと、シンクにもたれる乙川くんがいた。頭の中はゴチャゴチャだったが、立ち止まらず進む。
相手が足音に気付いてこちらに視線を向ける。
その目が見開かれる。
私は口を開いた。
「乙川く――」
「乙川さんはそれでいいんですか?」
給湯室の中から女性の声がして、思わず足を止めた。
いまの声は浅木さんだ。彼女はさらに問いかける。
「そんなことに意味があるんですか?」
浅木さんが一歩詰め寄ったので、こちらの視界に入った。
私は立ちすくむ。
乙川くんがよそを見ているので、彼女が振り返る。こちらを認めて、責めるような眼差しをぶつけてきた。
三者三様の沈黙が流れたあと、彼が私に対して静かに言った。
「すみませんが、二人にしてもらえますか」
「ご、ごめんね、邪魔して……」
浅木さんの刺す視線と、乙川くんの無表情。
自分は完全に場違いだ。逃げるようにその場を離れた。
どこをどう進んだのか、階段のそばまで来ていた。そこを上って踊り場の奥で足を止めた。
壁に寄りかかる。
積み上げた勇気は砕け散った。
あの二人が一緒にいるのを目にして、現実を突きつけられた。
乙川くんがいま、優先するのは彼女。私は過去の存在。
分かっていた。それなのにどうして――。
私は声を殺して肩を震わせた。
早退したいと思ったけれど、それを願い出る気力もなかった。午後の仕事をのろのろこなす。
乙川くんや浅木さんの姿が目に入ると、心が凍りついた。
彼らの様子はいつもどおりで、あのあとどんな話をしたかなんて窺い知れない。
これだけ疲弊した頭で働いたら、ミス連発かもしれない。
もうどうでもいい。いっそ使えない人間とみなされてクビになってしまえばいいんだ。
乙川くんに、一言だけでも気持ちを伝えたかった。あれほどの勇気をふたたび絞り出すことは不可能だ。
せめて、一人でいてくれたら……。
ううん、きっと結果は同じ。
私はパソコンの画面に表示された文字や数字を、理解不能な言語を見る思いで眺めた。
当然ながら定時で終わるはずがない。係長がまた声をかけてきた。
「糸瀬さん、もう切り上げて」
「……定時で終わったことにします」
「それは困るよ。仕事は一人でしてるんじゃない。ここでがんばるほうが、周りに迷惑をかける場合もあるんだ」
私は手を止めてうなだれた。
「休みをください。できれば今週中に。そこできちんと休養します。だから今日は見逃してください」
相手は小さく息をついた。
「一時間だけ。僕もまだ仕事があるから、それ以上は許可しない。あとサービス残業は厳禁。働いたぶんはきちんと受け取るように」
「……すみません」
申し訳ないと思いつつ、あとひと作業は済ませてしまいたかった。
クタクタになるまで働いて、帰宅したとたんベッドに倒れ込みたい。でも自分のことだから、シャワーを浴びて明日の準備をするのだろう。
お酒に逃げることすら面倒だ。
仕事でも周りの足を引っ張る。
私がここにいる意味はあるのだろうか?
魂が身体から抜けて、機械のように働く自分を哀れみの目で見下ろしている。
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