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季節が移り変わっても
四十五分が過ぎたころ、仕事終了のめどがついた。
課に残っているのは係長と自分だけ。
彼のデスクの電話が鳴ったので、当人が受話器を取る。相手は取引先らしい。
「その件についての書類はほかの課に回していますので、少々お時間いただけますか? 再度こちらからご連絡いたします」
受話器を置き、あわただしい足取りで出て行った。
内容は分からないが、すぐ戻ってくる可能性もある。約束通りあと十分で終わらせないと、とパソコンと向き合った。
やがて無事に作業が片付き、安堵のため息をつく。
書類やボールペンなどを引き出しにしまう。パソコンの電源を落としたとき、ドアの開く音がした。
私はそちらに目を向けて、思わぬ相手に息を呑んだ。
そこに、小さいトレイを手にした乙川くんが立っていた。こちらに向けて穏やかな笑みを浮かべる。
とっくに帰ったはずなのにどうして?
驚いて言葉が出てこない。
彼は係長のデスクをチラッと見た。
「係長は不在なんですね。まぁ、そのほうがいいか」
歩み寄って目の前まで来ると、トレイに乗せたティーカップを私の机に置いた。一口サイズのチョコレートも添えてある。
「お疲れさまです。よかったら一服してください」
差し入れにも驚きだが、ティーカップが前と同じものであることに目を疑った。あれは私が割ったはず。
「このカップ、どうして……」
「お気に入りだったでしょう? 同じものにしたかったんです」
「探したの? 有名メーカーでもないのに」
「見つからなければ妥協するつもりだったんですが、運よく」
時間が巻き戻ったようで、私は動揺する。
相手と目を合わせていられずにうつむいた。
「こんなことしてもらっても……困る」
「紅茶やお菓子に罪はありませんよ。誰が用意したかなんて気にせず、召し上がってください」
紅茶はあたたかく、チョコレートは甘く癒やしてくれるだろう。だからこそ受け取るわけにはいかない。
「浅木さんが知ったら、どう思うか……」
「向こうは承知していますよ。僕には大切な人がいて、彼女には応えられないと伝えました」
「え?」
私は思わぬ言葉に彼を凝視する。
乙川くんはちょっとはにかんでから、まっすぐ見つめてきた。
「僕の気持ちは変わりません」
「二人は付き合ってるんでしょう?」
「いいえ。そんな事実はありません」
「けど私、一緒に居酒屋に入っていくところを見た」
相手は記憶を辿るように考え込み、あれか、という顔をした。
「ほかのメンバーは先に入店していたんです。あの日は僕が年長者で、多めに支払わされて散々でしたよ。まぁ、新人の考えが聞けたのは収穫だったかな」
私は呆然とつぶやいた。
「二人きりじゃ……なかったんだ」
「鈍い僕だって、ああも積極的に来られたら、さすがに思わせぶりなことをするわけにはいきません」
腑に落ちかけて、昼の給湯室でのことを思い出す。
納得できずにいると、彼が弁明した。
「昼はすみませんでした。浅木さんは言いたいことがあるようだったので、あの場で片付けたかったんです」
そして乙川くんは優しい声で告げる。
「僕にとっていちばん大事な人は、あなたです」
キラキラした言葉が胸に沁み込んでくる。
でもダメだ。私たちは終わったのだから。
「全部リセットしたじゃない。ただの同僚に戻ったはずでしょう」
膝の上で手をギュッと握りしめる。
乙川くんには新しい道を歩んでほしい。相手が浅木さんだろうとほかの女性だろうと構わない。仕事に打ち込むのでもいい。
一緒に過ごした日々を過去にしてくれるのなら。
けれど彼はすべてを包み込むように微笑んだ。
「あなたは言いました。飲み会からのことを白紙に戻そうと。そう願うのであれば、僕は受け入れます。二人の日々は夢だったと」
そして静かにつづける。
「だから、それ以前の僕に戻ったんです。あなたを想いながらなにもできず、こうして差し入れすることが精一杯だった自分に」
私は言葉を失った。
プライベートで接するまえから、乙川くんは私を見つめていた。私は彼の優しさに甘えて癒やされた。
飲み会以前に戻っても、細い糸が繋がっていたのだ。
もし、始めの夜以降の記憶を消したところで、目の前の存在はただの同僚ではない。
視界がジワリと潤み、私は唇を噛んだ。
「そんな都合のいいことが……許されるわけ」
「しつこくてすみません。それでも僕は、あなたを諦めたくない」
こらえきれずに涙がこぼれる。
胸の奥で弾ける想いを抑えつけるのは限界だ。
「私も……乙川くんでないとダメ。別れてから、心がバラバラになってしまった。あなたを自由にしたかったのに、やっぱりそばにいたいって。身勝手でもそれがほんとうの気持ち」
「糸瀬さん……」
「乙川くんと離れたことが、つらくてたまらなかった」
私は顔を両手で覆った。
「あなたなしではどこへ向かえばいいのかも分からない。息もできない。助けて。乙川くんのぬくもりであたためてほしい」
カタッとトレイを置く音がした。
そして私は、たくましい腕に包まれた。
頼りがいのある大きな身体が、柔らかく抱きしめてくれる。私は相手の胸に顔を押しつけて泣いた。
彼はそれを受け止め、何度もこちらの頭を撫でた。
しばらくして私が落ち着いたとき、乙川くんはそっと囁いた。
「僕はいつだって、あなたのそばにいます」
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