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気付いてくれたらいいのに
タクシーがマンションの前で停まった。
乙川くんがこちらに声をかける。
「ちょっとだけ待っててください」
そして領収書を切ってもらい、料金を支払う。
彼が車を降りると同時に、私も外に出た。空気がひんやりして肌に心地いい。
タクシーが去ったあと、乙川くんが申し訳なさそうに言った。
「ここの二階ですけどエレベーターがないんです。差し支えなければ、背負っていきましょうか?」
「それぐらいの階段なら大丈夫」
彼はせめてもとバッグを持ってくれた。
部屋へ先導しつつ、私がちゃんとついてきているか何度も振り返る。
乙川くんの家は1Kだった。
壁やフローリングは白、カーテンやソファーがベージュ、テーブルや本棚はブラウンと暖色系でまとめてある。
落ち着く部屋だ。観葉植物でもあれば完璧かもしれない。
乙川くんは荷物をテーブルに置いて促した。
「嫌じゃなければベッド使ってください。そのほうが楽だと思うんで。今、ミネラルウォーターを用意します」
私は部屋の奥まで行き、整えられた寝台に腰かけた。
自分で行動したというのに、彼の部屋に上がりこんでベッドに座っている状況を奇妙に感じた。
満たしたグラスを渡され、ひと口ふた口、のどに流し込む。よく冷えているからか、店のお冷やより美味しい。
ふうと息をつくと、乙川くんが安堵の表情になった。
私は彼に説明する。
「じつはタクシーの匂いが苦手なの。それでも、いつもはこんなふうにならないけど、意外と酔ってたのかな」
「楽になりました?」
「うん。すこし休ませてもらっていい? いますぐタクシーに乗るのはちょっと」
「ぜんぜん問題ありませんよ。明日は休みですし、あわてて帰る必要はないです。体調が戻ってからで」
「じゃあ甘えるね。乙川くんでよかった」
すると彼は頬を赤らめて、ごまかすようにかぶりを振った。
「これぐらい大したことじゃないです」
グラスを空にすると、おかわりがいるか尋ねられたが、充分だと答えた。コートを脱げば、相手がハンガーに掛けてクローゼットの空いた場所に置く。
私はかいがいしい背中に声をかけた。
「ベッド借りるね。ちょっと眠りたい」
「どうぞ。気分が悪くなったり喉が渇いたりしたら、いつでも呼んでください。僕が寝ていても、起こしてもらって構いません」
「心強いよ。じゃあお休みなさい」
「お休みなさい」
布団に潜り込んで背中を向ける。
室内が間接照明に切り替わった。
ベッドの中はあたたかくて身体の強張りがとける。ただし、眠気はなかった。
密室で男性と二人きりだが、身の危険は感じない。
乙川くんはすこしのあいだ、こちらを見守っていた。私が寝たフリをすると、自分のことに移った。
静かにシャワーを浴び、それからキッチンでわずかな物音をさせる。
彼が部屋に戻ってくると同時に、ほんのりコーヒーの香りがした。ソファーに腰を下ろして一息ついているようだ。
しばらくたってから、クローゼットのほうでゴソゴソと毛布でも取り出したらしい。ソファーへ戻りがてら間接照明を消して、横になる気配がした。
この状況で眠れるのかなと思ったけれど、飲み会のあとだからか、やがてかすかな寝息が聞こえてきた。
私はずっと一人暮らしなので、寝るときに誰かがいる状況に違和感を覚えた。元カレと付き合ったのはずいぶん昔の話だ。
知らない部屋、家に押しかけるほど仲がいいわけではない相手。
でも、室内に漂う優しい空気に心がゆるむ。
ときに満たされないより、満たされるほうが胸が苦しくなるのだと知った。
* * *
乙川くんが配属されたころ、私はようやく新人の域を脱したところだった。
「教えるのも勉強になるから」と言われ、課の仕事を説明する立場になった。
私だって『新米教師』なので、四苦八苦した。
乙川くんは出来のいい生徒であり、疑問が浮かんだときはこちらの話がひと段落してから投げてくるので、すごくやりやすかった。
たいていのことは一度で理解する。
好き勝手はせず、重要なポイントで確認を求める。
ミスもごく少なく、課の面々に「新人らしからぬ新人」という評価を受けた。
相手が誰でも、アドバイスをもらうと、人懐っこい笑顔で「ありがとうございます!」と感謝する。
周囲としては構いがい、鍛えがいがあるというものだ。
当人の能力が秀でていたことに加え、先輩にかわいがられてまた伸びる、という良循環ができあがった。
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