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それから二年たった現在。
作業区分が別になったため、私と乙川くんの接点はあまりない。
でもここ半年ほど、相手の私に対する接し方が変化した。
出社時や退社時など、みんな課内に向かって挨拶するが、彼はそれに加え、私へ個別に挨拶する。遠い場所にいても、声をかけるために足を運んでくる。
私は、親しみを覚えてくれたのだと解釈した。
いつからか、乙川くんが紅茶を差し入れてくれるようになった。
うちの会社は飲み物がほしい場合、各自で用意する。給湯室でコーヒーなどを淹れるもよし、自販機や店で購入するもよし。
会議のときにお茶汲みを頼まれることもあるが、基本的にみんな好き好きに飲む。
私もそうしていた。けれど、乙川くんがときどき「自分のついでです」と言って、紅茶を置いていくのだ。
彼自身はコーヒーなのだから、わざわざ淹れたに決まっている。それをする相手は私だけ。
何度か続いたとき、こちらから言った。
「ほしかったら自分で用意するから大丈夫だよ」
乙川くんがにっこり笑って答える。
「なにか飲んだあとだったら、捨ててください」
そんなことできるはずがない。
私は作業に集中するタイプだから、小休止するタイミングを失ってしまうことがよくある。ちょうど欲しいときに彼が差し入れてくれるので、正直に言えばありがたい。
ただ、対象が自分だけとなると、厚意に甘えていいものか悩む。
繁忙期に差しかかると、一口サイズのチョコレートが添えてあった。
初めのとき、彼は説明した。
「取引先の人にもらったんですが、数が少ないので内緒で」
またはこんなふうに。
「親から送られてきたんです。減らすの協力してください」
しかし、課内の人間に配った様子はない。
私は考え込む。
後輩に懐かれるのは嬉しい。でも彼はどういうつもりだろう。先輩として慕っているのか、べつの気持ちがあるのか。
その先のアプローチがないので判断できない。
当然ながら、紅茶の差し入れは周囲の目に止まり、「付き合ってるの?」と聞かれたこともある。
私は否定して、「前につきっきりで仕事を教えたから」と理由づけした。
乙川くんも同じ質問を受けたらしい。
付き合っている部分については「いいえ」と答え、すこし遠い目で付け加えたそうだ。
「僕が糸瀬さんにしたくて、しているんです」
かくして課内では、乙川くんが片想いしている、ということになった。
私は好きな人がいる以上、キッパリ撥ねつけるべきだったのかもしれない。でも、チョコつきの紅茶を遠慮がちに置いていく姿を見ると、「もうやめて」と拒めなかった。
そんな私は、きっとずるい。
仕事中にふと目が合うと、彼はあわててパソコンや書類に視線を落とす。
私が風邪で休んだ日はずっとソワソワしていたらしく、翌日に出社すると、いの一番に声をかけてきた。
「大丈夫ですか? 無理しないでください」
「ありがとう。完全に治ったから」
いつもの口調で答えれば、安心したように破顔する。
仕事上の接点は少ないけれど、機会があれば話しかけてくる。とりとめのない会話でも楽しそうだ。
仕事のことに触れると、こちらの働きぶりを高く評価しているのが伝わってくる。私は謙遜するが、乙川くんは「いえ、すごいです」と譲らない。
通常業務を褒められることなんてまずない。
コツコツやっている姿を見てくれる人がいるのは、ありがたいことだ。
私という人間が、ここで地道に息づいていることを、肯定してもらえた気持ちになる。
私は彼を失いたくないのだ。
アプローチがないのをいいことに、曖昧な関係に甘える。
そこに相手の特別な気持ちがあるなら、私はひどいことをしている。なのに手放すことができない。
いっそ乙川くんが、こんな本心に気付いてくれたらいいのに――。
私の三科係長への想いも、乙川くんの想いも、ずっと形作られなかった。だから途切れることなく続いた。
その一角がとうとう崩れ落ちた。
もう私は、同じ場所にとどまることが許されない。これからどこへ向かえばいいのだろう?
* * *
借りたベッドの中でうつらうつらした。
意識が戻ったときに戸惑ったものの、すぐに飲み会からの流れを思い出す。枕元のケータイで確認すると二時過ぎだった。
ベッドを出てトイレから戻ってきても、乙川くんはグッスリ眠っていた。
暗闇の中だが、家具の形などはうっすら分かる。
部屋の入り口側の壁に目を凝らし、ふたつあるスイッチの下を押した。間接照明がついて、室内の様子がふわりと浮かび上がる。
それでも彼は目を覚まさない。
私は息をひそめ、ソファーへ歩み寄った。
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