現実なんて忘れよう

1/1
前へ
/27ページ
次へ

現実なんて忘れよう

 私はフローリングに膝をついて、乙川くんの寝顔を眺めた。  二十代半ばだというのに、中高生みたいにあどけない。かわいい、と笑みを漏らし、すぐにそれを消した。  小声で呼びかける。 「乙川くん、乙川くん」  彼はわずかに眉をしかめたものの、起きない。  私はさらに繰り返した。  やがて、乙川くんがゆっくりまぶたを上げる。ぼんやり天井を眺め、こちらの存在に気付いて視線を向けた。  大きく目を開き、ガバッと上半身を起こして私を凝視した。 「糸瀬さん? ここ僕の家ですよね。なんで……」  起き抜けで状況が把握できないようだ。  私は思考する余地を与えず、しれっと嘘をついた。 「これは乙川くんの夢だよ。そうでしょ? 私が男性の部屋に軽々しく上がりこむと思う?」 「いえ。でも、飲み会からの帰りに糸瀬さんが気分を悪くしたような……」 「それも夢。実際の私たちは、何事もなくタクシーで別れたの」 「そうでしたっけ」 「夢でガッカリ? 私がここにいること」  乙川くんは恥ずかしそうに視線を落とした。 「……嬉しいです。糸瀬さんと自分の部屋で二人きりとか。こんな夢を見たことがバレたら軽蔑されるかも」 「いいじゃない。見ようと思って見たわけじゃないし」 「でも、どうでもいい相手は出てきませんよね。まぁ、あなたが僕にとって大きな存在だなんて、分かりきっているんですけど」  これまでハッキリ示されなかった彼の本心を聞いて、心が揺らめく。 「いつも紅茶を差し入れてくれるのは、そういうこと?」 「いいかげん、気持ち悪がられると思ってるんです。けど、美味しそうに飲んでくれるとやめられなくて……。ほんと押し付けがましい。糸瀬さんにだけは嫌われたくないのになぁ」  シュンとしてうつむく。  握りしめる相手の拳に、私はそっと手を乗せた。 「嬉しいよ。いつも素っ気なくてごめんね」  すると彼は驚いて顔を上げた。 「迷惑じゃなかったんですか?」 「もちろん。美味しい紅茶とチョコをありがとう」 「はぁあ、よかったぁ……」  心から安心した様子に、私はクスッと笑う。  けれど、不意に乙川くんは顔を強張らせた。 「夢だから、僕のほしい言葉をかけてくれるんじゃ。実際には嫌がられていたら……」 「直接、聞いてみたら?」 「もし『今後いっさいやめて』と言われたら立ち直れません」  それを恐れるわりには、差し入れをやめないのか。  そういうものかもしれない。微妙な距離でも保っていたい、心に住み着いた相手とは。  私は胸の痛みをよそに追いやって、彼を見つめた。 「現実なんて忘れよう。こうしていられるんだから」 「糸瀬さん……」 「二人きりで嬉しい?」 「はい」 「話ができるだけで満足?」  すると、乙川くんはうろたえて視線をさまよわせる。 「僕にとっては、充分に恵まれた状況で」 「飲み会で実現したじゃない」 「あれは本当だったんだ……。たくさん会話して、ときどき僕の言うことに笑ってくれて。糸瀬さんの気遣いだとしても、僕は有頂天でした」  彼は『夢の中』で夢見心地になっている。それぐらい大切な時間だったのだ。 「叶ったら、もっと、ってならない?」  大きな拳がまたギュッと握られ、乙川くんは申し訳なさそうに顔を伏せた。  私はもう一方の手も重ね合わせて相手を見上げる。 「私は夢の中の存在だから、乙川くんがしたいことを嫌がらないよ?」  彼はビクッとしてこちらを見つめた。  その喉がゴクリと唾を飲む。なおも葛藤していたけれど、やがて諦めたようにため息をつく。 「そんなことを言わないでください。抱きしめたいのが……我慢できなくなる」 「私はあなたの望む私。抱擁したら分かるよ」  それでも乙川くんはためらった。  こちらに向かって一瞬だけ泣きそうな顔をする。空いているほうの腕をこわごわ伸ばし、屈みながら私を抱きしめた。  私はドキドキすると同時に、がっしりした身体に包まれて安堵した。  彼が壊れ物をくるむような気遣いの抱擁をする。  その背中に手を添えると、乙川くんは感極まった声でつぶやいた。 「僕はいま死んでも本望です」 「大げさだよ。乙川くんがこうして形づくった私はどうすればいいの? 置いていくなんてひどい」 「置いていったりしません。そばにいてほしい」 「私はあなたのもの」 「僕のもの……」  呆然と繰り返したあと、乙川くんは両腕でしっかり抱きしめた。  苦痛に耐えるような声で乞う。 「糸瀬さんにキスしたくて心が壊れそうです。しても……いいですか?」 「あなたの望みが、私の望み」  乙川くんが息を呑んだ。  前屈みの身体を起こしつつ、こちらの両肩をつかんで思いつめた眼差しを注ぐ。  私はかすかに笑った。 「高低差があるね」  彼はソファーに座っていて、私は膝立ちとはいえフローリングの上。もともとの身長差もある。  乙川くんはすこし冷静になったらしく、照れた顔をした。  こちらの腕を取って自分の横に座らせる。  改めて見つめ合うと、相手は緊張の表情になった。  彼は今度こそためらわず、顔を近づけて目を閉じ、優しく唇を重ね合わせた。  長いキスだった。  顔を離した彼は切ない目を向け、想いを語るように口づけを繰り返した。 「糸瀬さん……糸瀬さん」  訴える声に、私の胸は痺れる。  いったんキスをやめた彼が苦しげな顔をする。  私はその頰を撫でた。 「我慢する必要ないんだよ」 「すみません……。止まれそうにない」  乙川くんは襲いかかるような口づけを仕掛けたのち、こちらの口内に舌を差し入れた。  私が舌を持ち上げると、獲物を見つけたように自らのそれを絡ませる。  私がかすかにうめくと、ディープキスはさらに激しくなった。  私は翻弄されつつ懸命に応える。  ひとしきり求め合ったあと、彼が「はぁああっ」とうなだれた。 「まるで、ケダモノだ」 「こうしたかった?」 「いえ、紳士的にあなたを思いやりながら。そんな余裕、これっぽっちもありません」 「私を見て」  乙川くんが上目遣いをした。私は笑いかける。 「こんなにしたかったんだ、って分かって嬉しい」 「あまり許容しないでください。もっと暴走してしまう」  立派な身体で縮こまる。叱られた大型犬みたいだ。 「夢ならいいんじゃない?」 「それでも、糸瀬さんには優しく接したい」 「乙川くんは優しいよ。だから、あなたの腕の中にいると安心する。ねぇ、離れると寒いの」  彼は驚いたあと、はにかんで、私をふわりと抱きしめた。 「安心しちゃダメですよ。僕だって、男なんで」 「分かってる。ドキドキしてるもの」 「夢の中でも、どうしようもなく翻弄するんですね」  そうひとりごちて、不器用なキスをした。
/27ページ

最初のコメントを投稿しよう!

150人が本棚に入れています
本棚に追加