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現実なんて忘れよう
私はフローリングに膝をついて、乙川くんの寝顔を眺めた。
二十代半ばだというのに、中高生みたいにあどけない。かわいい、と笑みを漏らし、すぐにそれを消した。
小声で呼びかける。
「乙川くん、乙川くん」
彼はわずかに眉をしかめたものの、起きない。
私はさらに繰り返した。
やがて、乙川くんがゆっくりまぶたを上げる。ぼんやり天井を眺め、こちらの存在に気付いて視線を向けた。
大きく目を開き、ガバッと上半身を起こして私を凝視した。
「糸瀬さん? ここ僕の家ですよね。なんで……」
起き抜けで状況が把握できないようだ。
私は思考する余地を与えず、しれっと嘘をついた。
「これは乙川くんの夢だよ。そうでしょ? 私が男性の部屋に軽々しく上がりこむと思う?」
「いえ。でも、飲み会からの帰りに糸瀬さんが気分を悪くしたような……」
「それも夢。実際の私たちは、何事もなくタクシーで別れたの」
「そうでしたっけ」
「夢でガッカリ? 私がここにいること」
乙川くんは恥ずかしそうに視線を落とした。
「……嬉しいです。糸瀬さんと自分の部屋で二人きりとか。こんな夢を見たことがバレたら軽蔑されるかも」
「いいじゃない。見ようと思って見たわけじゃないし」
「でも、どうでもいい相手は出てきませんよね。まぁ、あなたが僕にとって大きな存在だなんて、分かりきっているんですけど」
これまでハッキリ示されなかった彼の本心を聞いて、心が揺らめく。
「いつも紅茶を差し入れてくれるのは、そういうこと?」
「いいかげん、気持ち悪がられると思ってるんです。けど、美味しそうに飲んでくれるとやめられなくて……。ほんと押し付けがましい。糸瀬さんにだけは嫌われたくないのになぁ」
シュンとしてうつむく。
握りしめる相手の拳に、私はそっと手を乗せた。
「嬉しいよ。いつも素っ気なくてごめんね」
すると彼は驚いて顔を上げた。
「迷惑じゃなかったんですか?」
「もちろん。美味しい紅茶とチョコをありがとう」
「はぁあ、よかったぁ……」
心から安心した様子に、私はクスッと笑う。
けれど、不意に乙川くんは顔を強張らせた。
「夢だから、僕のほしい言葉をかけてくれるんじゃ。実際には嫌がられていたら……」
「直接、聞いてみたら?」
「もし『今後いっさいやめて』と言われたら立ち直れません」
それを恐れるわりには、差し入れをやめないのか。
そういうものかもしれない。微妙な距離でも保っていたい、心に住み着いた相手とは。
私は胸の痛みをよそに追いやって、彼を見つめた。
「現実なんて忘れよう。こうしていられるんだから」
「糸瀬さん……」
「二人きりで嬉しい?」
「はい」
「話ができるだけで満足?」
すると、乙川くんはうろたえて視線をさまよわせる。
「僕にとっては、充分に恵まれた状況で」
「飲み会で実現したじゃない」
「あれは本当だったんだ……。たくさん会話して、ときどき僕の言うことに笑ってくれて。糸瀬さんの気遣いだとしても、僕は有頂天でした」
彼は『夢の中』で夢見心地になっている。それぐらい大切な時間だったのだ。
「叶ったら、もっと、ってならない?」
大きな拳がまたギュッと握られ、乙川くんは申し訳なさそうに顔を伏せた。
私はもう一方の手も重ね合わせて相手を見上げる。
「私は夢の中の存在だから、乙川くんがしたいことを嫌がらないよ?」
彼はビクッとしてこちらを見つめた。
その喉がゴクリと唾を飲む。なおも葛藤していたけれど、やがて諦めたようにため息をつく。
「そんなことを言わないでください。抱きしめたいのが……我慢できなくなる」
「私はあなたの望む私。抱擁したら分かるよ」
それでも乙川くんはためらった。
こちらに向かって一瞬だけ泣きそうな顔をする。空いているほうの腕をこわごわ伸ばし、屈みながら私を抱きしめた。
私はドキドキすると同時に、がっしりした身体に包まれて安堵した。
彼が壊れ物をくるむような気遣いの抱擁をする。
その背中に手を添えると、乙川くんは感極まった声でつぶやいた。
「僕はいま死んでも本望です」
「大げさだよ。乙川くんがこうして形づくった私はどうすればいいの? 置いていくなんてひどい」
「置いていったりしません。そばにいてほしい」
「私はあなたのもの」
「僕のもの……」
呆然と繰り返したあと、乙川くんは両腕でしっかり抱きしめた。
苦痛に耐えるような声で乞う。
「糸瀬さんにキスしたくて心が壊れそうです。しても……いいですか?」
「あなたの望みが、私の望み」
乙川くんが息を呑んだ。
前屈みの身体を起こしつつ、こちらの両肩をつかんで思いつめた眼差しを注ぐ。
私はかすかに笑った。
「高低差があるね」
彼はソファーに座っていて、私は膝立ちとはいえフローリングの上。もともとの身長差もある。
乙川くんはすこし冷静になったらしく、照れた顔をした。
こちらの腕を取って自分の横に座らせる。
改めて見つめ合うと、相手は緊張の表情になった。
彼は今度こそためらわず、顔を近づけて目を閉じ、優しく唇を重ね合わせた。
長いキスだった。
顔を離した彼は切ない目を向け、想いを語るように口づけを繰り返した。
「糸瀬さん……糸瀬さん」
訴える声に、私の胸は痺れる。
いったんキスをやめた彼が苦しげな顔をする。
私はその頰を撫でた。
「我慢する必要ないんだよ」
「すみません……。止まれそうにない」
乙川くんは襲いかかるような口づけを仕掛けたのち、こちらの口内に舌を差し入れた。
私が舌を持ち上げると、獲物を見つけたように自らのそれを絡ませる。
私がかすかにうめくと、ディープキスはさらに激しくなった。
私は翻弄されつつ懸命に応える。
ひとしきり求め合ったあと、彼が「はぁああっ」とうなだれた。
「まるで、ケダモノだ」
「こうしたかった?」
「いえ、紳士的にあなたを思いやりながら。そんな余裕、これっぽっちもありません」
「私を見て」
乙川くんが上目遣いをした。私は笑いかける。
「こんなにしたかったんだ、って分かって嬉しい」
「あまり許容しないでください。もっと暴走してしまう」
立派な身体で縮こまる。叱られた大型犬みたいだ。
「夢ならいいんじゃない?」
「それでも、糸瀬さんには優しく接したい」
「乙川くんは優しいよ。だから、あなたの腕の中にいると安心する。ねぇ、離れると寒いの」
彼は驚いたあと、はにかんで、私をふわりと抱きしめた。
「安心しちゃダメですよ。僕だって、男なんで」
「分かってる。ドキドキしてるもの」
「夢の中でも、どうしようもなく翻弄するんですね」
そうひとりごちて、不器用なキスをした。
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