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嘘をついた
翌朝、先に目を覚ましたのは私だった。
隣で乙川くんが眠っていることに驚いたが、すぐにいきさつを思い出す。
このまま起きないでほしい。相手が夢の中にいるあいだは、そばにいられるから。
十分ほどたったころ、彼が身じろぎしてゆっくり目を開けた。
外の明るさをにじませるカーテンを見つめ、それからこちらに視線を向ける。
「糸瀬さん……」
「おはよう、乙川くん」
彼は固まったまま返事もできずにいる。
それに気付かぬフリをして、私は上半身を起こした。毛布を引いて身体の前面を隠す。
でも、なにもまとっていない後ろ姿を相手は目にしただろう。また、自分が裸であることにも気付いたはずだ。
乙川くんは沈黙している。
私は振り返らずに小声で尋ねた。
「もしかして覚えてない? 昨夜のこと」
「いえっ、あの……」
相手が慌てて起き上がったものの、近付くことをためらっている。
「なんとなくは……。ただ、あれは夢だとばかり」
「じゃあ、乙川くんが眠ってるあいだに帰ったほうがよかったかな?」
「そんな!」
乙川くんは焦ってこちらの腕をつかんだ。
私は相手に視線を向ける。
混乱のさなかにいる彼は、目のやり場に困ってうつむく。そして自信なさげな声でつぶやいた。
「僕は糸瀬さんと、その……」
「ひとつのベッドで眠っただけだよ」
「服をすべて脱いで、ですか。これはそういうことですよね?」
乙川くんが思いつめた顔をしている。
さすがに罪悪感が私の胸を刺す。
「私、もう帰りたい」
私は彼の手を押し返し、身体をさらすことも構わずベッドを下りた。散らばった服をまとっていく。
後方からすがるような声が聞こえた。
「糸瀬さん……僕は……」
私はクローゼットから出したコートをまとい、冷静な顔で振り返った。
「乙川くんは夢を見たんだよ。私がここからいなくなれば、日常が戻ってくる」
「ま、待ってください。なかったことになんて……」
「だって私たち、ただの同僚でしょ?」
キッパリ言い切ると、乙川くんが言葉を失った。私はさらに突き放す。
「お互い大人だし、これぐらい騒ぎ立てることじゃない」
平気なフリをしているそばから、仮面がはがれてしまいそうで、怖くてならない。もし強く詰め寄られたら、取り繕えなくなる。
私は踵を返してバッグを手に取った。
「週が明けたらいつも通りにして。私もそうする」
「糸瀬さん!」
嘆くような声を無視して、玄関へと急ぐ。
だが靴を履いているあいだに駆け寄る足音がして、肩をつかまれた。
私がキッと睨みつけると、下着姿の乙川くんはたじろいだ。
「触らないで!」
彼の手が力なく下ろされる。
「僕は……あなたにひどいことを」
「そう、乙川くんのせい」
相手がうなだれる。とても見ていられなかった。
「忘れて。お互いのために」
なんとかそれだけ口にして、私は家を飛び出した。
駆けるように階段を下り、建物の外へ逃れる。早朝とはいえ、チラホラ人通りがあった。
私は必死に感情をこらえる。
なにもかも、自分が悪いのに。
* * *
ひどいことをされるより、するほうがつらい。
重い気持ちを抱えながら週明けを迎えた。
出勤の支度をこなし、職場への電車に揺られる。仕事を休んだところで、すこし先延ばしになるだけ。過ちからは逃げられない。
課の席に着いてから、サッと資料を眺めた。
仕事仲間が次々に出社してきて、始業十分前に乙川くんも姿を現す。不意に目が合い、私は反射的に視線を逸らした。
彼は後ろを通りがてら、「おはようございます」と抑えた声で挨拶する。私も机を見つめたまま同様に返す。
たったそれだけのやり取りに、ひどく動揺した。
『週が明けたら、いつも通りにして』
そう言ったのは自分。相手はこちらの要望に従ったのだ。
やさしいぬくもりに触れたことは、忘れられない。でも大人のフリをしなければ。
昨夜と今朝でてのひらを返した私を、乙川くんは理解できないだろう。のちに恨むかもしれない。だが、そのほうがいいと思う。
ふと、自分は世界に一人ぼっちだ、と感じた。
この日は三科係長の笑顔を目にするより、難しい表情の乙川くんを盗み見するほうが胸が痛かった。
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