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いつものメンバーで食堂のランチを済ませてお喋りしていると、「糸瀬さん」と呼びかける声があった。
振り向けば、真剣な面持ちの乙川くんが立っている。
「話があるので付き合ってもらえませんか」
「え……」
戸惑う私に、周りが提案した。
「私たちが席を外そうか?」
彼は人目を気にする様子だ。
そして、「できれば向こうで」と付け加えた。
私は食堂の外に視線を流す。
ここで断っても、相手はきっとべつの機会を探る。
だから素直に席を立った。それから、先を行く広い背中に続いた。
乙川くんは責めるつもりなのだろうか?
私は平然としなければならない。不安を抱えながらついていく。
彼が建物の端にある階段を上り、踊り場で足を止めた。
昼休憩のいま、こちらを上り下りする人間はほぼ皆無だ。誰かに聞かれたくない話をするにはちょうどいい。
相手が振り向いたので、私は思わず身構えた。
「糸瀬さん」
「な、なに?」
相手はちょっと押し黙ったあと、深々と頭を下げた。
「すみませんでした」
「え?」
「あの夜のこと、きちんと責任を取ります」
乙川くんは上半身を起こし、真面目な表情で告げた。
「警察に訴えて、慰謝料を請求してください。一括は無理かもしれませんが、すべて支払います」
「警察? 慰謝料? どうして……」
「僕があなたを傷つけたからです」
「なにを言ってるの? 逆ならまだしも」
「逆?」
彼は怪訝な目をしてから、表情を正した。
「考えたんです、糸瀬さんがうちにいた理由を。あの夜、僕はずいぶん酔っていました。もしかしたら危なっかしい様子だったのかもしれません。あなたは心配して介抱したに違いない。なのに朝、ああいう有様になっていたのは……」
いったん言葉を切ってから、泣きそうな顔をした。
「僕が糸瀬さんを襲って無理強いしたんですね?」
私は絶句した。
乙川くんがかろうじて言葉を重ねる。
「本当に……すみません。謝っても取り返しはつかない。重い罰を受けてもあなたの傷は癒えない。でも、どうしたらいいのか分からないんです」
相手の膝がガクッと崩れたと思ったら、彼は床に両手をついて頭を下げた。
「いっそ『死ね』と言ってください。僕はそれほどのことを……」
極限まで思いつめている。
私は混乱したが、いますぐ自首しそうな様子に慌て、自らも膝をついて相手の肩をつかんだ。
「違う、私があなたを誘ったの」
乙川くんはビクッと反応してから、こちらを目で窺う。まったく信じていない表情だ。
「まさか」
「乙川くんは、酔ってもひどい仕打ちなんかしない。あの夜、私は『気分が悪いから休ませて』と言って家に上がったの。『寒い』って訴えたら、あなたは抱きしめてくれた。『キスして』ってねだったらその通りに。私の願いを叶えただけ」
「糸瀬さんが僕に、そんなことを頼むはずが……」
「私に嘘をつくメリットがあるの?」
彼が身体を起こして考え込んだ。
私はひとつ思い出し、訂正した。
「ごめんなさい。ひとつ嘘をついた。眠ってたところを強引に起こして、『これは夢だ』って暗示をかけた。そうすれば、触れてくれると思って」
「……どうして」
私はいったん口をつぐませ、相手から視線を逸らした。
「あたためてほしいと思うのは、いけないこと? 人肌が恋しいのは、はしたないこと? あなたに抱かれたいと望んだのは……恥ずべきこと?」
「い、いえ」
「訴えられるのは私のほう。慰謝料を払うのも。身勝手なことをした……」
後悔の念で、息が詰まる。
すると乙川くんがこちらの肩に手を置いた。
「あなたにされたことで、僕が傷つくはずがありません。たしかに記憶は曖昧で、なにを根拠にと思うでしょう。でも断言します。僕は幸せだったに違いない」
「乙川くんの優しさに付け込んだ私を、軽蔑したかも」
「いいえ。それは糸瀬さんにとって、僕に利用価値があったということ。あなたの力になりたいと願いながら、ずっとなにもできなかった。あの夜、僕が役に立ったのなら、ただただ嬉しいです」
私は大きくかぶりを振った。
「こんなの、ずるい。乙川くんなら拒まないと分かっていて、私は……」
「あたためてほしいとか、キスしてほしいとか、僕にとっては役得以外のなにものでもない。僕だってあなたの心の隙間につけ入った。お互いさまです」
「どうして私を嫌いにならないの?」
「なぜ嫌いになるんです? こんなに強くて脆くて、優しいのにそれが自分で分からない、かわいい人を」
私は唇を噛んだ。
「乙川くんは騙されてる」
「それでも構いません。無関係の淋しさに比べたら」
「私なんかに引っかかるから、正常な判断もできなくなったの」
「僕にとっての正解です」
どこまでもまっすぐな彼の前で、強がるのはムダだと感じた。
もう疲れたの。休みたい。
そんな時、目の前にふかふかのベッドがあったら――。
私は広い肩に額を当てた。
「ほんとうは、乙川くんのぬくもりが忘れられなかった」
「僕はどうすればいいですか?」
「独りに……しないで」
彼が私をしっかり抱きしめた。
「あなたのそばにいます」
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