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ぬるい水がいい
三科係長は私の想いに気付いていたんだと思う。
残業ついでに別口の作業を片付けておいたら、翌日それに目を止めた彼が言った。
「済ませてくれたんだね。糸瀬さんは『仕事熱心』だなぁ」
彼が荷物を運ぶときにさりげなくドアを開けたり、必要となるであろう書類を自然なふうを装って渡すと、涼やかな笑顔を向ける。
「糸瀬さんは『なんにでも』気配りできる人だね」
そしてバレンタインの日、デパ地下で厳選したチョコレートを渡すと、はにかんだ。
「嬉しいよ。これは有名店の物だね」
サラッと続ける。
「僕は詳しくないけれど『妻が』好きでね。きっと喜ぶ」
告白なんてできなかった。
どういう答えが返ってくるか分かりきっている。愛妻家であるところも含めて好きだった。
家庭を壊してまで振り向いてほしいとは思わない。
ある日、とうとう最終通告を突きつけられる。
係長と話す同僚女性の、驚く声が課内に響き渡った。
「奥さん、おめでたなんですか? いよいよパパになるんですね。これからは生まれてくるお子さんのためにも、がんばらないと!」
ほかの同僚が次々と祝いの言葉を述べる中、私の持っていたボールペンは細かく震えた。
輪を見ると、真ん中にいる彼はしきりに照れつつ、周囲にお礼を言う。
一人の男性社員がその情報を改めて課内に告げ、「おめでとうございます!」の声と拍手が沸き起こった。
私も控えめに拍手する。
かろうじて笑顔を浮かべていたと思う。でも、なにもかも現実感がなかった。
嫌でも自覚する。私は完全に失恋したのだ。
* * *
繁忙期を越えたところだったので、課の飲み会が行われた。
私は仲のいい女性陣に混じり、とりとめのないお喋りに興じた。
遠くにいる三科係長の背中をチラッと見る。男性社員に囲まれて楽しげに酒を進めている。
彼らの話題にはきっと、奥さんの妊娠のことも上がっているに違いない。
私は、これから普通の部下として振る舞うことを決めた。
だが、胸の中にくすぶる想いをまだ過去にできない。顔を見るのがつらいというほどではないけれど、気持ちは複雑だ。
いつか、「そんなこともあった」と笑えるのかもしれない。しばらくの時間をやり過ごすんだ。
周りの話に耳を傾けつつチューハイを口にする。氷が溶けて水っぽい味だ。
係長への恋もこんな感じだった。
アルコールは入っているけれど、曖昧。最後にはほとんど水になる。
告白して振られておけばよかっただろうか。
私はグラスの表面についた水滴を撫でた。
そのとき、隣に座る有原さんが身体を寄せ、こちらに耳打ちした。
「ほら、また糸瀬さんのこと見てるよ」
「え?」
彼女が視線を向けた先に若手男性が集まっていて、その中の乙川くんと目が合う。相手はあわてたようにうつむいて、ビールを口にした。
有原さんがニヤニヤする。
「彼ってほんと分かりやすいよね。私と席を代わりたいんだろうな。言ってくれば考えてあげるのに、そういう行動力はないんだねぇ」
こういうとき、どう返事すればいいのか困ってしまう。
「若手で積もる話もあるだろうし、楽しくやってるんでしょ?」
「でも絶対、糸瀬さんと喋りたいはずよ。肝心なところで押しが弱いんだから」
私は苦笑するしかなかった。
乙川桂吾くん。
私よりふたつ年下の後輩。
身長は170半ばで、ラグビー部や柔道部出身と言われても納得できそうな、がっしりした身体つきをしている。顔は大学生みたいな童顔。
『いい人』を絵に描いたような性格で、女性陣から裏で『わんこ』と呼ばれていた――。
私が化粧室に行っている間に、みんな席を替えていた。
元の場所に戻ろうとして立ちすくむ。その近くに三科係長がいる。
あちこちに声をかけるうちに捕まったのだろう。腰を下ろして、小皿に取り分けられた料理を口にする。
あの場には戻りたくない。
職場では冷静に接しているが、このときは避けたい気持ちが上回った。
室内を見渡す。
適当な席に移動してしまおう。
どこにしようと考えて、不意にそれすら面倒に感じた。
帰りたい。
なんでもないフリをして飲み会に参加している自分が、滑稽に思えた。
息がつまる。この場から立ち去ってしまいたい。元の席にあるバッグを置いたままでも。
そのとき、左のほうから遠慮がちな声が聞こえた。
「糸瀬さん、このあたり席あいてるんで……」
続く言葉は周りの喧騒にかき消された。たぶん「よかったら」と言ったのだろう。
見ると、提案したのは乙川くんだった。
気遣う表情をしている。
彼の周囲はだいぶバラけて、年配男性や女性が入り混じっている。若手男子に囲まれることはなさそうだ。
一瞬迷ったけれど、元の席に戻るよりは、と勧めに従った。
席は三ヶ所ほど空いている。乙川くんの隣に腰を下ろすと、彼が驚いた顔をした。
私はわざと聞く。
「ここ誰か戻ってくる? ほかの席のほうがいいかな?」
「いえ、メチャクチャ空いてます! 大丈夫です!」
相手は緩みかけた表情をごまかすように咳払いし、テーブルに向き直ってビールをグイッとあおった。
私は近くのお冷やを指す。
「これ、飲みさしじゃないよね? もらってもいいかな」
「氷が溶けきってますし、新しいのをもらいますよ?」
「ううん、ぬるいお水がいいの」
コップに口をつける。
とくに美味しくはなかったが、喉の渇きは癒えた。
乙川くんがこちらを呆然と眺めているので「どうかした?」と聞くと、彼はあわてて視線を逸らして「なんでもないです」とつぶやいた。
すこし頬が染まったのは、アルコールのせいだろうか、それとも。
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