ぬるい水がいい

1/2
前へ
/27ページ
次へ

ぬるい水がいい

 三科係長は私の想いに気付いていたんだと思う。  残業ついでに別口の作業を片付けておいたら、翌日それに目を止めた彼が言った。 「済ませてくれたんだね。糸瀬さんは『仕事熱心』だなぁ」  彼が荷物を運ぶときにさりげなくドアを開けたり、必要となるであろう書類を自然なふうを装って渡すと、涼やかな笑顔を向ける。 「糸瀬さんは『なんにでも』気配りできる人だね」  そしてバレンタインの日、デパ地下で厳選したチョコレートを渡すと、はにかんだ。 「嬉しいよ。これは有名店の物だね」  サラッと続ける。 「僕は詳しくないけれど『妻が』好きでね。きっと喜ぶ」  告白なんてできなかった。  どういう答えが返ってくるか分かりきっている。愛妻家であるところも含めて好きだった。  家庭を壊してまで振り向いてほしいとは思わない。  ある日、とうとう最終通告を突きつけられる。  係長と話す同僚女性の、驚く声が課内に響き渡った。 「奥さん、おめでたなんですか? いよいよパパになるんですね。これからは生まれてくるお子さんのためにも、がんばらないと!」  ほかの同僚が次々と祝いの言葉を述べる中、私の持っていたボールペンは細かく震えた。  輪を見ると、真ん中にいる彼はしきりに照れつつ、周囲にお礼を言う。  一人の男性社員がその情報を改めて課内に告げ、「おめでとうございます!」の声と拍手が沸き起こった。  私も控えめに拍手する。  かろうじて笑顔を浮かべていたと思う。でも、なにもかも現実感がなかった。  嫌でも自覚する。私は完全に失恋したのだ。 * * *  繁忙期を越えたところだったので、課の飲み会が行われた。  私は仲のいい女性陣に混じり、とりとめのないお喋りに興じた。  遠くにいる三科係長の背中をチラッと見る。男性社員に囲まれて楽しげに酒を進めている。  彼らの話題にはきっと、奥さんの妊娠のことも上がっているに違いない。  私は、これから普通の部下として振る舞うことを決めた。  だが、胸の中にくすぶる想いをまだ過去にできない。顔を見るのがつらいというほどではないけれど、気持ちは複雑だ。  いつか、「そんなこともあった」と笑えるのかもしれない。しばらくの時間をやり過ごすんだ。  周りの話に耳を傾けつつチューハイを口にする。氷が溶けて水っぽい味だ。  係長への恋もこんな感じだった。  アルコールは入っているけれど、曖昧。最後にはほとんど水になる。  告白して振られておけばよかっただろうか。  私はグラスの表面についた水滴を撫でた。  そのとき、隣に座る有原さんが身体を寄せ、こちらに耳打ちした。 「ほら、また糸瀬さんのこと見てるよ」 「え?」  彼女が視線を向けた先に若手男性が集まっていて、その中の乙川くんと目が合う。相手はあわてたようにうつむいて、ビールを口にした。  有原さんがニヤニヤする。 「彼ってほんと分かりやすいよね。私と席を代わりたいんだろうな。言ってくれば考えてあげるのに、そういう行動力はないんだねぇ」  こういうとき、どう返事すればいいのか困ってしまう。 「若手で積もる話もあるだろうし、楽しくやってるんでしょ?」 「でも絶対、糸瀬さんと喋りたいはずよ。肝心なところで押しが弱いんだから」  私は苦笑するしかなかった。  乙川桂吾くん。  私よりふたつ年下の後輩。  身長は170半ばで、ラグビー部や柔道部出身と言われても納得できそうな、がっしりした身体つきをしている。顔は大学生みたいな童顔。 『いい人』を絵に描いたような性格で、女性陣から裏で『わんこ』と呼ばれていた――。  私が化粧室に行っている間に、みんな席を替えていた。  元の場所に戻ろうとして立ちすくむ。その近くに三科係長がいる。  あちこちに声をかけるうちに捕まったのだろう。腰を下ろして、小皿に取り分けられた料理を口にする。  あの場には戻りたくない。  職場では冷静に接しているが、このときは避けたい気持ちが上回った。  室内を見渡す。  適当な席に移動してしまおう。  どこにしようと考えて、不意にそれすら面倒に感じた。  帰りたい。  なんでもないフリをして飲み会に参加している自分が、滑稽に思えた。  息がつまる。この場から立ち去ってしまいたい。元の席にあるバッグを置いたままでも。  そのとき、左のほうから遠慮がちな声が聞こえた。 「糸瀬さん、このあたり席あいてるんで……」  続く言葉は周りの喧騒にかき消された。たぶん「よかったら」と言ったのだろう。  見ると、提案したのは乙川くんだった。  気遣う表情をしている。  彼の周囲はだいぶバラけて、年配男性や女性が入り混じっている。若手男子に囲まれることはなさそうだ。  一瞬迷ったけれど、元の席に戻るよりは、と勧めに従った。  席は三ヶ所ほど空いている。乙川くんの隣に腰を下ろすと、彼が驚いた顔をした。  私はわざと聞く。 「ここ誰か戻ってくる? ほかの席のほうがいいかな?」 「いえ、メチャクチャ空いてます! 大丈夫です!」  相手は緩みかけた表情をごまかすように咳払いし、テーブルに向き直ってビールをグイッとあおった。  私は近くのお冷やを指す。 「これ、飲みさしじゃないよね? もらってもいいかな」 「氷が溶けきってますし、新しいのをもらいますよ?」 「ううん、ぬるいお水がいいの」  コップに口をつける。  とくに美味しくはなかったが、喉の渇きは癒えた。  乙川くんがこちらを呆然と眺めているので「どうかした?」と聞くと、彼はあわてて視線を逸らして「なんでもないです」とつぶやいた。  すこし頬が染まったのは、アルコールのせいだろうか、それとも。
/27ページ

最初のコメントを投稿しよう!

150人が本棚に入れています
本棚に追加