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恋愛なんて面倒ください。女性との駆け引きなんて考えたくもない。そんなふうに思っていても、辰巳は女子と全く縁がないわけでもなかった。
「あー、肉食べてーッ」
と、隣で同僚の田村夕実が乱暴な口調でそう唸って、「おまえ男かよ」と辰巳は顔をしかめた。
「いや、だって! なんか血が足りないっつーか、スタミナが足りないっつーか。今の私には肉とビールの摂取が必要です」
「……おまえ、さっき、大盛りパスタに唐揚げ、食べてなかったか?」
「コンビニ食は別腹です」
なんて言い放つ彼女が、今辰巳の一番身近な女性だ。
金曜日の夜九時、場所は会社の事務所だ。日中なら三十人ぐらい社員がいるはずのフロアにはもう片手で数えるほどしか社員はおらず、その中で二人はデスクを並べて残業をしていた。
田村夕実は辰巳の四つ年下の後輩だが、営業課に配属されたのが同時期だったため、営業経験は同年数で、どこか戦友に近い関係にある。
「俺、もう帰るぞ」
「えー、帰るんですか、あと一時間ぐらい仕事しませんか」
「しねえよ、帰るよ」
すげない辰巳に、夕実も慣れた調子で「じゃあ私も帰るかな」と呟いたが、仕事をする手を止める様子はなかった。得意先から急ぎの見積を頼まれたらしく、それが終わらない限り、帰る気はないのだろう。
会社からチーム営業をしろと言われても、営業仕事は結局個人の能力やスキルに負うところが大きく、同僚の残業を手伝うことは少なかった。チームとして手伝えるところは他にある。
「明日は何時だっけ?」
「あ、待ち合わせは九時半でお願いします。……すいません、土曜日のなに」
「別にどうせ明日は予定なかったし」
明日の土曜には夕実が担当しているスポーツウェアメーカーの合同セールイベントがあるのだ。展示会やセールに使用される什器やポスターなどの一部の印刷物の制作・印刷を担当しているため、設置状況の確認と挨拶に顔を出す。
いつもなら夕実ひとりで行っているのだが、今回はそのほか商材のリサーチを兼ねて同じ課の辰巳も同行することになったのだ。
「あ、辰巳さん、休みに予定ないって言わない方がいいらしいですよ」
「は? なんで?」
「つまらない男に見えるからです。この間、合コンで学びました! あと合コンにツッコミは不要だそうです。笑いを求めるな、と大学の先輩に言われました」
「…………」
おまえは合コンに行ってなにを学んできてるんだ、と言いたくなったが、辰巳はやめておいた。木藤につれられて辰巳が合コンによく行っていたのは二十七から三十ぐらいまでで、夕実が自分と同じような道を歩んでいるような気がしてならない。
異性を見る目を肥やしたところでいいことはないと気づくのはきっと三十才頃だ。
「あ、明日は日当つくし、帰りにうまいもん食って帰りましょうよ。──そうだ。恵比寿に和牛を半頭買いして、安くてうまい焼き肉屋があるらしいんですよ。そこどうですか」
「結局肉かよ。別になんでもいいけど。俺は帰るぞ」
「はーい、お疲れさまでーす」
先に帰る辰巳に対してなにも感じていないのが明らかで、彼女を残していくことを気にせずに辰巳は事務所を後にしていた。
ある意味、彼女とは気安い関係だ。彼女があまりにも男のように働き、オッサンのような発言をするせいか、遠慮が要らない。気を遣わないでいいから一緒にいても苦ではない。
一緒に営業課に配属されて早々からお互いにそんな感じだったから、年の近い独身男女ということもあり、ずいぶん周りからもてはやされた。それでお互い意識する──ということも全くなく、しかもどれだけ長い時間一緒にいても、驚くほど色恋の香りはたたなかった。
別に中身がオッサンでも外面はきちんとした可愛らしい女の子だ。最前衛で営業をしているだけあって、頭の回転も速いし話題も豊富だし、面白いと思う。
……なのに、どうしても恋は芽生えない。
田村夕実だけじゃない。辰巳とて、女っ気がまったくないわけではないのだ。
仕事の相性が良い女性ライターや、一年に二回は打ち上げと称して飲みに行く得意先の担当者や、たまに連絡が来て近況を報告し合う大学の先輩など。
みんなそれぞれに魅力的な女性だと思う。……でもダメなのだ。恋心が湧かない。
きっと自分のなにかが足りないのだ、と辰巳は思う。けれどそのなにかがなになのか、辰巳は分からなかった。
「肉ですよ、肉。おいしいお肉が待っています!」
言葉だけ聞いたらまるで男のような発言を、後輩女子が辰巳の隣で言い放つ。
駅を降りて、恵比寿駅の長いスカイウォークを歩いている途中だった。仕事の一環で取引先の合同セールイベントに顔を出し、得意先の担当者に挨拶し、それから他企業を含めて商材のリサーチしてきた、その帰りだ。
土曜ということもあり、仕事は午前中ぐらいで終わらせるつもりだったが、思いがけず時間がかかってしまい、時間はすでに午後二時を回っていた。昼飯をまだ食べていないため、辰巳ももちろん空腹だが、夕実のがっつき具合には呆れてしまう。
美食を求める部分は女子だと言えるのか、しっかり行きたい店の情報は調べてきてあるらしく、辰巳はただ夕実のあとについていくだけだ。
飲食店なら駅の西口か東口かと思っていたが、彼女はガーデンプレイスの方に向かっている。
恵比寿なんて洒落た街に縁遠いが、ガーデンプレイスには東京都写真美術館があって、ときどき面白いマイナーな映画を上映したりするので、たまに足を運ぶことがあった。
「……田村、飯の前にちょっと写美寄ってもいい?」
「飯の後じゃダメですか」
「どうせちょうど写美の向こうなんだろ。今なにやってるか見るだけだから」
辰巳の言葉に夕実が「仕方がないなあ」なんて言っている。態度のでかい後輩だ。だが今さら少し遅くなっても、という気持ちだったのか、そのまま写真美術館の方に足を向けた。
お金を払って展示室に入らなくても、今どんなものをやっているかはポスターなどの掲示で分かるし、次回予告のチラシも手に入る。夕実を放って、そのほか美術展関係のチラシなどもざっと目を通して、次回作品が面白そうだから久坂を誘って見に行こうか、なんて考える。
「田村。悪い、満足した。飯行くか」
「とてもお腹がすきました」
「悪かったって。店ここから近いんだろ。カルビ一皿おごってやるから──」
そう夕実を促して、踵を返そうとした途端だった。
「……辰巳さん?」
少し離れたところから名前を呼ばれ、え? と辰巳は足を止めて、声を振り返っていた。
「久坂──」
視線の先には、いつものように少し緩い格好をすっきり着こなした年下の友人がいる。あまりの偶然に、辰巳はそれ以上の言葉が出てこなかった。
久坂も驚いた様子で呆然とその場に立ち尽くしている。
「辰巳さん? お知り合いですか?」
「え? あ、うん、友だち。──久坂、こっちは後輩の田村で」
隣にいた夕実が様子を窺うように尋ねてきて、とりあえず二人のことを紹介しようとしたが、ふと違和感を感じて辰巳は途中で言葉を飲み込んだ。
──いつもの久坂なら、顔を合わせればすぐに笑みを浮かべて歩み寄ってくるのに。
だが今日の久坂はどこか硬い表情で、辰巳と距離を置いたまま小さく会釈をした。
「えっと、もしかして、これ見に来てた?」
「ええ、まあ」
「俺は今ちょっと寄ったところで──」
なんか変だ。いつもの打てば響くような会話にならなくて、辰巳はひどく落ち着かない気分になる。その微妙な空気を察しているのかいないのか、あっさりと夕実が口を開いた。
「私たち、今からランチに焼肉いくんですよ。一緒に行かれます?」
「……俺は、このあと用があるんで」
失礼します、と言うと、久坂はもう一度夕実と辰巳に軽く頭を下げて、さっさと歩き始めていた。距離を置いたまま、目もくれず辰巳の横を通りすがって美術館を出ていく。
「じゃあ、また──」
そう言った辰巳の声も聞こえたか、どうか。
隣で辰巳と同じように去っていく久坂の背中を目で追いかけていた夕実が、あ、と声をあげた。
「もしかして彼女と間違って、気ぃ遣わせちゃいましたかね?」
ええ!? と驚いて辰巳は夕実を振り返っていた。
田村夕実はただの後輩だ。仕事の帰りでもあったし、まさかそんなふうに勘違いされるなんて思ってもみなくて、だけど「誤解だ!」と久坂にメールするのもなんだか変なような気がして、辰巳は悩んだ末に翌朝「飯でも食わないか」とだけ連絡を入れた。
どんな反応をするかとどきどきしたが、意外にあっさりと「じゃあ辰巳さんちの近くまで行きますよ」と返事がきて、辰巳は安堵した。
久坂の住んでいる街と辰巳の住んでいる街は電車で三十分ほど離れているが、同じ私鉄で路線を乗り継いで行けるから、気軽に行ったり来たりできる。お互い新宿まで出る方が時間的には早いのだろうが、そこまで都心に行くことは避けることが多かった。
日曜の夕方十八時に駅に現れた久坂はやはりいつもとは少し違い、どこか気まずそうに視線を合わせようとせず、改札前で待っていた辰巳に歩み寄ってきた。
「……なに、喰います?」
「そこらの居酒屋でいいだろ」
とはいえ、いきなり「なんなんだよ」とその態度を問い詰めるわけにもいかず、辰巳はなるべくいつもの感じで適当に店を決めて歩き出した。
五月も下旬となり、ずいぶんと陽が長くなってきたのか、外はまだ明るかったが、あいにくの雨で街はぼんやりとけぶるようだ。
選んだ店は駅から近いビルの上階にある和風ダイニング風の居酒屋で、日曜の六時ということもあって空いていたのか、すんなりと席に通された。前の通りの並木を見下ろせる窓際の良い席だ。メニューも開かずに、席に案内した店員に生ビールを二つ頼む。
席についてもどう話を切り出せばいいのか分からず「また雨だな」だの「陽が長くなった」だの営業経験で鍛えた得意の時候の挨拶で辰巳がお茶を濁しているうちに、ビールが運ばれてきて「おつかれ」と乾杯を交わした。
「久坂、あのな、昨日の──」
「まさか言ったそばから女子とデートしてるとは思いませんでした」
「あれは単なる後輩でそんなんじゃねえよ」
話を切り出した途端、返す刀で切りつけるように久坂がそう言い放ってきて、指摘されれば反射的に辰巳はそう言い訳じみた言葉を返していた。
「仕事だよ、仕事。後輩の取引先のイベントがあって、その帰りに」
「仕事の帰りに恵比寿で映画デートですか」
「飯、食に行くついでにちょっと俺が寄りたいって言っただけで、映画は見てないし」
言葉を交わす二人の間にあるテーブルの上にはビールとお通しだけが置かれ、いつもならすぐ久坂が率先して辰巳の意見を聞きながら注文するのに、なんだか調子が狂うようで、辰巳はいつもより早いピッチでビールグラスを傾けた。
久坂はグラスに手をかけたまま頬杖をついて、うつむくように辰巳から視線を逸らす。
「なんだかんだいって、辰巳さんってモテるんですよね」
「はあ!? なんでそうなるんだよ」
「前にも取引先の人と飲みに行ったりしてたじゃないですか。得意先だか仕入れ先だか知らないけど。あれはどうなったんですか」
「いつの話だよ。仕事のつきあいだろ」
確かに、ライターだのデザイナーだの親しい取引先と飲みに行くことはたまにあるし、同じように親しい得意先とだって折半で飲みに行くことはある。それは営業ならごく普通のことで、一体、なにがそう久坂の気分を損ねているのか、辰巳には分からなかった。
久坂は辰巳を見ないまま、言葉を続ける。
「相手独身だって言ってたじゃないですか。そういう気持ちが全くないって言えるんですか」
「…………」
そういう考えが全くないかと問われれば、ないと断言はできないかもしれない。
「あんなこと言いながら、きっと辰巳さんの方が先に彼女をつくって、バカみたいに恋愛して、そのうち結婚するんですよ」
「そんなわけあるか」
それは久坂の焦りなのか、自分が感じた寂しさと同じものなのか。
分からなかったが、どちらにしろ久坂の指摘は間違いだ。確かに独身女性と食事に行ったときに、全くなにも考えないわけではない。好きか嫌いかを考える前に、その相手と気が合うかどうかを図っている。目の前の女性との関係が変化することがあるのかないのか、その可能性を考えている。けれどそれは恋愛とは別なのだ。哀しいほど違うものなのだ。
「ねえよ、マジで、そんなの。大体いまさら恋愛とか考えられないし」
「なんで」
「だってしんどいだろ、ちょっとしたことで気持ちがアップダウンするのは。しんどいし、疲れるし、面倒くさい」
「そんなに前の彼女が好きだったんですか」
「────」
思いがけないその問いに、思わず辰巳は顔をあげていた。気づくと、久坂がまっすぐに辰巳を見つめている。まるで言い逃れを許さないかのような強い眼差しで。
頑なに辰巳が恋愛を厭う理由に、前に付き合っていた彼女のことが全く関係ないとは言えない。だが、それは久坂の言うような意味ではなく「そんなんじゃねえよ」と辰巳は答えていた。
八年前に別れた前の彼女と、一生に一度の恋をしたわけじゃなかった。結婚もまだ意識していなかった。好きだったことに嘘はないけれど、三年つき合って最後は恋だの愛だのいうよりも、互いにプライドばかりを守って傷つけあった。
「好きだから忘れられないとかじゃねえよ、別に普通の恋愛で普通に別れ話だ」
「そうは見えませんけど」
「……相手に浮気されたんだよ。それで浮気相手との間に子どもできたって言われて、そしたらもう普通に別れ話以外にないだろ。なのに俺のせいだって罵られた。ずっと寂しかったのに、プロポーズしてほしかったのに、気づかなかった俺が悪いんだって」
彼女にそう非難されて、そのとき辰巳は思ったのだ。……ああ本当に面倒くさいな、と。
だから彼女の言うとおりだった。自分が悪いのだ。もう彼女に愛情が薄れていたのに、惰性でつき合って、彼女を解放することすらしなかった。自分が悪いのだ。
「……恋愛なんて本当に面倒だよ。俺はもういいよ。ああいうのは本当にもういい」
「なのに女性とデートするんだ。矛盾ですね」
そう、矛盾だ。分かっている。
ふっと辰巳は笑った。
「おまえはまだ若いから分からないんだ」
「年なんてそんな変わらないでしょ」
「三十過ぎは複雑なんだ。恋愛なんて面倒くさい、やりたくない。だけど実際、世の中は結婚することが正しい人としてのあり方で、親も親戚も心配してうるさいし。……俺も不安になる」
「なにが不安なんですか」
問われて、ふと眼差しをあげて辰巳は窓の外を見た。
気づけば外は薄く暗くなり、ぼんやりとした暗闇を雨が濡らしている。
「……だって怖いだろ。ひとりで取り残されるのは。誰からも愛されず、老いていくなんて、誰だって怖いだろ」
誰しもいつかは老いる。
仕事を退職し、社会との関わりが希薄になっていく時期が来る。そのとき自分には家族がおらず、子どももおらず、一人でいるのだとしたら。
それも悪くないと思い切れるほど、強くなれたらいいのに。
「俺がいるじゃないですか」
目が覚めるようなはっきりした声に、辰巳は目を瞬いていた。
見やれば久坂がまっすぐに辰巳を見つめていた。テーブルを挟んで目の前にいる彼が、どこかいつもと違うようで、辰巳はどきりとする。いつものように悪戯っぽく和らげた眼差しの奥に、見たことのない熱が垣間見えたようで──。
「一緒に年くって一緒にホーム入りましょうよ」
「なんだよそれ、おまえと一生添い遂げろっていうのかよ」
「それも悪くないじゃないですか」
久坂の冗談に、ハハッと辰巳は笑い声を洩らしていた。
「馬鹿だな。おまえはきちんと彼女つくれよ。若くてイケメンなんだからさ」
「辰巳さん、俺は」
「俺、腹減ったよ、なんか頼もうぜ」
なぜかこれ以上この会話を続けたくなくて、辰巳はそうメニューを開いていた。それに対して久坂がどう思ったのかは分からなかったが、僅かな間があって、それからいつもの調子で「いきなり飯物頼むのはやめてくださいね」と向かいからメニューを覗きこんできた。
……最初のころの気まずい空気が嫌で空腹のうちにハイピッチで空けたビールにせいか、気づかないうちに辰巳は強かに酔っぱらってしまっていた。とはいえ、辰巳は泣き上戸でも笑い上戸でも怒り上戸でもない。ただ酔うと眠くなる。
辰巳が眠そうに目をこすったところで久坂が気づいて、「じゃあ締めますか」と言って店員を呼んで会計をした。いつものとおり割り勘で、五百円単位以下の端数は適当にそのときどちらかが払う。眠気をこらえながら、辰巳はポケットの中の財布と携帯と家の鍵を確認して立ち上がった。
「……眠い。酔った」
「飯、辰巳さんちの近くでよかったじゃないですか。ここまで来た俺に感謝してくださいよ」
同じだけの酒量を飲んでいるはずの久坂は特に酔った様子はなく、そんなふうに言って先にさくさく歩いて店を出る。エレベーターを開けて、「辰巳さん」と招くそのさりげないエスコートに、つくづくいい男だよな、と辰巳はぼんやりと考えた。
「辰巳さん、大丈夫ですか」
「ん、大丈夫」
と言ったそばから、一階に着いたエレベーターから降りるところでつまずいて、バランスを崩したところに慌てて久坂が手を伸ばしてきた。がっしりと両腕で肩を掴まれる。
「ったく、全然大丈夫じゃないじゃないですか」
背中から支えられ、すぐ耳元でそう笑われて辰巳は心臓が飛び跳ねるのを感じた。あ、と肩越しに振り返るように見やった彼が一瞬、前に言ったとおりに、肉食系の獰猛な獣のように見えて、急に辰巳はどきどきした。いや、それともこれを男の色気というのか。
「……おまえってときどき雄くさいよな」
なんとなく気後れを感じて、無意識に逃れるように身体をよじりながら、辰巳はそう呟いた。ぎゅっと腕をつかむ力が一瞬強くなる。
「雄ですよ、俺は」
「こんなとこで無駄にフェロモンふりまいてんじゃねえよ」
「じゃあ、どこでフェロモンふりまけばいいんです?」
「女の前だろ。イチコロだよ、おまえなら」
褒めているはずなのに、久坂は嬉しい顔をしなかった。辰巳から手を離し、けれどその場に立ちつくしたまま、駅に向かって歩き出そうとした辰巳に呼びかける。
「辰巳さんは、……俺に彼女ができてもいいんですか」
振り返った先に、思いがけず久坂の真剣な眼差しを見つけて、辰巳はどきりとした。
本気を出せば、きっと彼にはすぐ彼女ができるだろう。それを寂しいと思うのはあくまで自分の問題で、本来ならそれは自然の成り行きなのだ。
「……できるんなら、その方がいいに決まってる」
「俺は彼女なんていらないです。結婚なんてしなくていい。俺は──」
「久坂、」
自分でも同じようなことを言っているはずなのに、年若い友人がそう言い放つのがなぜか苦しくて、辰巳は言葉を遮った。
自分も二十代のときは同じように、彼女なんていらないと思っていた。今だって欲しいとは思わないけれど、五年後に久坂が自分と同じようになるのはダメな気がする。
「そんなふうに自分で可能性つぶすようなこと言うなよ。……ごめんな。俺がいつも夢のないことばかり言うからだ。やっぱり、できないとか言わない方がいいな。そういうことを俺が言うからダメなんだ。なあ久坂、俺もできないなんて言わないから、おまえもそういうこと言うなよ」
──久坂はきちんと幸せにならないと。
本気でそう思うのに、なぜ胸が苦しいのか、辰巳は分からなかった。
居酒屋の入ったビルの一階で、向き合っていた。外はまだしとしとと雨が降り、濡れた路面が並木道に並んだオレンジ色の外灯の光を反射させる。
ふっと久坂が辰巳から顔をそむけ、視線をうつむけた。
「俺ってなんなんでしょうね、……辰巳さんにとって」
「なにって」
なぜ彼が傷ついたようにうつむくのか分からず、ぼんやりと辰巳は問う。顔が見えないのが嫌だ、と思ったけれど、久坂は顔をあげなかった。
「……いいです、もう」
そして呟いたその小さな声は、蕭々と降る雨音に吸い込まれていった。
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