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 久坂からのメールの返信が遅い、と辰巳が気づいたのは半月も経ってからのことだった。  もともと毎日メールをしていたわけでもなく、三、四日に一度、週末の予定を聞いたり、どんな映画を見たかを伝えたりし合っていて、そういえば辰巳がメールをすれば久坂からはその日のうちに返事があったはずなのに、今は数日経たないと返事がやってこない。  週末の映画への誘いも断られた。「すいません、ちょうどその日地元の友人が遊びにくるんで」と返事はいつものように丁寧だったが、いつもなら「翌週はどうですか」といった言葉が必ずついてくるのに、今回はなかった。 「──先輩、なんか最近、苛々してます?」 「先輩ってなんだよ、気持ち悪いな」  残業中にふと隣席から田村夕実に言われて、キーボードを叩く手をとめずに辰巳は顔を歪めた。 「だから、そーゆーとこが怖いんですけど」 「…………」  怖いと言いながら、夕実が本気で怖がっているわけではないのは分かったが、思わず辰巳は口をつぐんでいた。  言われて初めて気づく。──そうか、自分は苛々しているのか。  水曜日の夜だった。一応この会社ではノー残業デーのはずだが、割り振られた得意先の性質なのか、先方担当者とのやり取りが夕方以降になることが多く、結局は辰巳も夕実も残業することになっていた。もちろん二人きりではなく、フロアにはまだ数人の社員が残っている。 「やっぱりあれですか。また課長から無茶ぶりされてましたよね。課内教育の報告書でしたっけ? 他の課じゃ課長がやってる仕事をなんで辰巳さんがやるのかって話ですよね」 「……まあ、うちの課に来たばっかりだからだろ。で、ちょうど俺ぐらいのレベルがあれこれ頼みやすいからだろ。やって評価してくれるんだったら別にいいけど。どうだろうな」  仕事のことで苛々していたわけではないが、夕実に合わせて辰巳はそう返しておく。 「仕事はできる人間に集中しちゃうんですよねー。それで残業ばっかりになるんですよ」 「……おまえ、さりげなく自分仕事できるアピールした?」 「あ、ばれました? 帰り飲んできます? 串屋で三十分一本勝負」  飲みの誘い方が勇ましすぎる。少し考えてから、辰巳は「やめとく。今日はもう帰るわ」とパソコンを睨みつけていた顔をあげた。  ……気のせいかもしれないが、すべては恵比寿で夕実と一緒にいたところを久坂に見られたことから始まっている気がする。そんな中で、夕実と一緒に飲みに行くのはなんだか気が引けた。  一日の仕事の整理や日報など細々とした業務を片づけて、辰巳は席を立った。隣で「また置いていくんですか」と心なく嘆いた夕実に、あっさりと「おつかれ」と声をかける。  事務所の入ったビルを出たときには、夜の九時を回っていた。最寄りの駅までは徒歩七分、そこから乗り換えの新宿駅までは十分。歩きながら、ふと辰巳は携帯を取り出した。  アドレス帳の「久坂七生」を表示させて、立ち止まる。  ──忙しいのか。俺は今から帰るとこ。軽く飯とかどう。  短いメールを送るだけ送って、また歩き出して辰巳は駅に向かった。電車に乗って新宿駅に着いて、乗り換えのためのルートを歩く前に携帯をチェックしたが、返事は入っていない。……少し前なら、誘いに乗るにしろ乗らないにしろすぐに返事があったのに。 「っ、」  ちっと本気で辰巳は舌打ちをしていた。  ……苛々している、自分は。  胃の奥でなにかが重く沈んでいる感じがして、背中を不快なざわつきが這い上がる。これは一体なんなのだろう、と辰巳は思った。  自分のこの気持ち悪さも、久坂の態度の変化も、なにがなんだか分からない。  今まで仕事でどれだけ客に振り回されても、どれだけ不当に厳しくあしらわれても、上司に無茶ぶりされたり見当違いの叱責を受けても、こんな感じにはならなかったのに。  新宿駅の構内で十分ほど返信を待ったが、やがて諦めて辰巳は荒々しい足取りで乗り換え路線の改札をくぐった。タイミングよく電車が停まっていて、その混雑した車両に乗り込む。  忙しいなら忙しいと言えばいい。飯を食いに行きたくないならそう言えばいいのだ。ついこの間までは、むしろ久坂の方がよく誘ってきていたのに、一体なんだというのだ。  苛立った気持ちのまま、辰巳はもう一度携帯のメール作成画面をたちあげていた。  ──彼女できたならそう言えよ。迷惑なら言えって言っただろ。  それだけ書いて送って、辰巳は画面を閉じるだけでなく、携帯の電源から落とした。返信が来るか来ないかを思い悩むなんて、うんざりだった。  辰巳は金曜日の昼ごろに、久しぶりに木藤にメールした。  ──久しぶりに飲まない?  イベント好きの同級生は、理解のある妻のおかげで、予定がなければ基本的に誘いに乗るタイプだ。案の定、返事は「いいよ、俺は十八時あがり。新宿?」と軽く返ってきた。  ──夕方外回りでおまえの会社近くまで行くから、そっち行くよ。  辰巳はそう返答メールを送った。  嘘だ。……いや、それは完全な嘘ではなかったが、近くまで行くと言っても品川と五反田では二駅も違うし、出先から直帰なんて辰巳は滅多にしない。だがその滅多なことをしてでも、辰巳は木藤の会社に足を向けずにはいられなかった。  久坂からの返事は翌朝になって携帯の電源を入れたら入っていて、夜のうちに返信をくれたのだと分かった。だがその返信は予想とは全く異なっていた。  ──彼女なんかできてません。  たったそれだけである。思わずそれを見た途端、辰巳は携帯に向かって「なんなんだよ!」と怒鳴っていた。だったら理由を言えよ、と辰巳は思う。メールの返信が遅い理由を、誘いを断る理由を、きちんと言えよ、と。  とはいえ、さすがの辰巳も会社の前で久坂を待ち伏せして問い詰めるつもりではなかった。これだけメールでつれなくされても心のどこかで、調子が悪いからじゃないか、と考えていた。今まであれだけマメでしっかりしていて、あんなに気安くしていたのにこの変化はおかしい。本当はなにかあったんじゃないか、と心配に思う気もして、せめて顔だけでも見たくて。  その日は梅雨の合間の晴れ空だった。といっても午後からは雲が出てきて、じわりの蒸し暑い一日になった。きっとビールがうまい。  約束より少し早く、木藤と久坂の勤める会社のある駅に辰巳は着いた。もうすっかり陽は長くなっており、五時半という時間はまだ十分に明るく、大勢の人が行き交う構内はまるで日中のようだった。木藤と久坂の勤める会社は駅からコンコースでつながった高層ビルに入っており、帰宅するとすれば必ずそのコンコースを通る。  木藤との待ち合わせは駅ビル一階のカフェの前だ。いつ見ても混んでいるその店の窓際の席がひとつ空いていることに気づいて、辰巳はコーヒーを頼んでそこに陣取った。  そうやって待ち合わせの三十分前から駅で待ち構えたところで、本気で久坂を見つけられると思ったわけでもない。五時六時のターミナル駅は、ビジネスタウンらしくすさまじい混雑で、そんな中でひとりを見つけるのは難しいことぐらい分かる。  ……一体、自分はなにをやっているんだろうな、と辰巳は重く息を吐いた。  テーブルに頬杖をついてぼんやり外を眺めていると、だんだんと気分が沈んでいくようだった。ガラスの壁の向こうでは、慌ただしくスーツ姿の男女がコンコースを行き交っていて──。 「────」  あ、とそれを見つけたとき、辰巳は頬杖を外して顔をあげていた。  コンコースの遠くから歩いてくるスーツ姿の男の背格好を、辰巳はよく見知っていた。まさか本当に見つけるとは思わず、けれど一瞬まるで見知らぬ男のようにも見えてどきりとする。  ──そうだ、スーツ姿は初めて見た。  久坂と会うのは休日がほとんどで、平日だとしても退社時間が二時間ぐらい早い久坂は大体いったん家に帰って着替えてくるのだ。  いつもの緩さの欠片もない格好のせいか、駅に向かって歩いて来るその表情もどこか冷え冷えと硬く見えた。いつもと印象は違っていても、けれど歩いてくるのは確かに久坂で。  ──久坂。……久坂、久坂。  たった半月ぶりに見ただけなのにひどく胸が高鳴って、辰巳は動揺した。  呆然と辰巳がカフェの中からガラスの壁越しに見ている間に、まったく気付かずに久坂はその前を通り過ぎかけ、ほとんど無意識に辰巳が腰をあげかけた──そのときだった。  ふっと久坂が足を止めて、背中を振り返った。 「────」  久坂に後ろから駆け寄ってきたのは、一人の女性だ。きっと同僚かなにかだろう。都会OLらしい華やかな格好をした若い女性はなにごとか久坂に話しかけ、それに久坂も表情を変えずに応えた。やがて女性に促されるようにして、二人が並んで歩き出す。  浮かせた腰を椅子に戻し、辰巳はそのまま二人が駅構内に入って見えなくなるのを見送った。 「──おい、辰巳?」  友人に声をかけられて我に返り、驚いて時計を見やって、辰巳はずいぶん長い間放心していたことに気がついた。気づけば木藤が辰巳の横に立っていて、首を傾げている。 「茶ぁして待ってるなんて珍しいな」 「ああ、……ちょっと早く着いたから。おつかれ」  なるべく気軽に聞こえるように言い放って、辰巳は立ち上がった。コーヒーに手をつけるのも忘れていて、半分以上残ったコーヒーはすっかり冷めきっていた。  木藤はある意味、とても面倒見が良い。それがありがたいときと余計なお世話なときとあるのだが。  付き合いが長いだけあって、すぐ辰巳の元気がないことに気づいた木藤は、直接なにがあったかは聞かずに「久しぶり合コンするか」と言ってきた。どれだけ合コン好きなのか、と思わず辰巳は呆れてしまう。大体なぜ「もうすぐ夏だもんな、彼女つくった方が良いよ」になるのか分からない。放っておけ、と言っても彼は辰巳の心情を構わない。 「おまえのそういう消極的なところがいかんと言ってるんだよ。本当に面倒くさがり屋なんだからなあ。メンツも店も俺が決めるから、おまえは必ず参加だ!」  そんな強引な木藤に立ち向かう気力もわかず、辰巳は適当に相槌を打った。  木藤は思い立つと行動が早い男だ。「思い立ったが吉日」とばかりに合コンを翌週の金曜日に設定して連絡をしてきた。なにもかもを木藤に任せられるのは楽だが、合コンそれ自体が辰巳にとっては気が重く、正直断りたかったが、自分のためにしてくれているとなればそうもいかない。  二週続けて金曜日に早く帰っていく辰巳に、恨みがましそうに夕実が「彼女できたんだ」と見上げてきて「おまえを見習って合コンだ」と返せば、「負けませんよ!」となぜか闘志を燃やしてきたのには少し笑った。それでも気は晴れない。  ……先週の金曜日から辰巳は久坂に一通もメールしていない。辰巳からメールをしなければ、久坂からはなんの連絡もなかった。  本当は木藤との待ち合わせに足を運ぶまで、ほんの少しだけ期待していた。以前のように、代打やなにかで久坂が顔を見せることを。  だが、もちろんそんなことはない。  木藤が連れてきたのは、髪を短く刈り上げた体育会系の二十五才の後輩だった。背は高くないが肉付きはよく、声は大きく明らかに体育会系なのに経理課で、木藤と同じ総務部所属だという。 「へえ、久坂さんと仲良いんですか!」  待ち合わせ場所からすぐそばのダイニングバーに移動する間に、彼はそんなふうに驚いてみせた。木藤が辰巳のことを「高校の同級生で久坂とも仲が良い」と紹介したのだ。 「あの人と仲良いってすごくないですか、俺、全然あの人の心読めないもん」 「それはおまえが仕事できないからだろ。あいつ仕事できないヤツには超冷たいからなあ」 「俺が仕事できないのに異存はないですけど!」  後輩の言葉に「異存を持てよ!」と木藤が指導していたが、そうして自分の知らない久坂の一面を聞かされるのが変に落ち着かない感じで、辰巳は居心地悪く口をつぐんだ。 「知ってます? 営業から呼ばれてるあだ名、冷徹仮面ですよ」 「まあ、仕事上、契約書とか取引に関してうるさいからな。営業に煙たがられるのはあるんだろ。でもあいつ全然冷徹じゃねえぞ?」  木藤の言葉に、そうだ、と胸の内で辰巳は頷く。  久坂は冷徹なんかじゃない。緩くて優しくてスマートで、ときどき肉食系で──。 「素直でかわいいとこあると思うけどな。根が真面目なんだよ。なに考えてるか分からないっていうけど、意外に聞いたら正直になんでも応えるし。おまえもストレートにぶつかってみろよ」 「いや、怖いからいいです」  前に輸出経費の件でこてんぱんにやられたんで、と後輩が言う。そうやって久坂の話を聞かされれば聞かされるほど、辰巳の気持ちは沈んでいくようだった。 「最近、久坂どうしてる?」  それでも気になって、結局、店の入った雑居ビルのエレベーターを待つ間に、辰巳はそう木藤に聞いていた。 「なんだよ会ってないのか」 「……なんか忙しいみたいで」 「忙しい? なんだろうな。仕事はいつもどおり朝早く来て定時に上がってるみたいだけど」 「いつも定時なのか」 「そりゃ繁忙期は残業してるだろうけど、基本は定時だな。うちの法務って管理本部管轄だから、俺らと一緒で残業とか労基法とかうるさいんだよ。──なあ?」  そう同意を求めると、後輩はうんうんと頷いた。 「フロア一緒だからほぼ定時で帰ってるのは確かだと思うぞ。……なんだろうな、とうとう彼女でもできたか。おまえ、年下に追い越されてんじゃねえよ。よし、今日こそ!」  誰のものでも色恋沙汰の話が大好きな木藤が嬉しそうに辰巳を焚きつけてきて、本気で不快げに辰巳は顔を歪めた。……合コンなんてどうでもいい。本当にどうでもいい。  ただ木藤を介さなければ、久坂の様子を知ることもできない──その事実を突きつけられる。  会社が違う、年齢も出身も大学も違う。共通点は映画という趣味だけで、それはなんて細く不安定なつながりなのだろう。メールひとつしなくなるだけで、今にも途切れそうで──。  気づいたらダイニングバーに着いていた。照明のやや落とされたムーディーな店は合コン御用達なのか、辰巳たちだけでなくそれらしいテーブルがいくつも散見され、華やかな空気が満ちている。店員に案内されて、女子たちが待つテーブルに着くまでの間に、辰巳は思った。  ──でも、このまま久坂と縁が切れるのだけは、いやだ。  いろいろ考えた末に、辰巳は日曜日の夜に、久坂に電話をかけた。  親以外にプライベートの電話をするのが久しぶりで、どうしたら落ち着いて電話をかけられるのか分からず、単身者用マンションの狭い1Kの部屋の真ん中に立ったまま、辰巳は携帯の通話ボタンを押していた。  自分と同じようにインドア派の久坂が、日曜日の夜に家にいないわけがない。だが、なかなかつながらずコールが十回を超え、どうしようか、と苛立ったところで、プツリと音がしてようやく相手が電話口に出た。 「……はい」  声は小さく硬かったが、確かに久坂のものだ。久しぶりに聞くその声に、わっと感情が溢れて、思わず最初から辰巳はケンカ腰に返していた。 「はいじゃねえよ! なんなんだよ!」 「辰巳さん」 「俺なんかしたか。迷惑なのか。なんでまともにメールの返事もしないんだよ。やっぱり彼女できたんじゃねえのかよ!」  辰巳の言葉に、電話口で久坂がぐっとなにかを堪えるように息を飲んたのが、分かった。 「……彼女つくれって言ったのは、辰巳さんじゃないですか」 「────」  その言葉に、やはりそうなのか、と一瞬にして胸が冷えるような思いを辰巳は味わった。なにか言ってやろうと思うのに口が動かず、電話口に沈黙が落ちる。  沈黙に耐えられなくなったように、先に口を開いたのは久坂だった。 「辰巳さんこそ、金曜日合コンに行ったんでしょう。木藤さん言ってましたよ」 「……行ったよ。そりゃ行くよ。だっておまえが、」  おまえが相手してくれないから、と言いかけて、辰巳は途中でやめた。  なんだこれ。子どもみたいじゃないか。自分の感情に振りまわされて、言い訳と非難とを一方的に相手にぶつけようとしている。そんな態度は大人げないと分かっているのに、辰巳は苛立つ気持ちを抑えられなかった。 「ていうか! なんで彼女できたおまえに、そんなこと責められなきゃいけないんだよッ」 「……彼女なんてできてませんよ」 「だったらなんで!!」  ほとんど叫ぶように辰巳は携帯に向かってそう問うていた。激した自分にたまらなく嫌気がさして、空いた手で額を押さえる。  ……こんなケンカ腰で話をしたいんじゃない。感情に任せて声を荒げるなんてしたくない。だけどこの暴れる感情をどうしたらいいか分からなくて──。 「くそっ、なんなんだよもう! 面倒くせぇな!」 「そんなふうに言うなら、俺のこと放っておけばいいじゃないですか。デートする相手だっているんだし、合コンだってやってるんだし、彼女作って俺のことなんか放っておけば」 「放っておけるわけないだろ!」 「────」  久坂が言葉を飲み込んだのが辰巳にも分かった。お互いにどうしようもなく感情が高ぶっているのが携帯を通じて分かって、けれどもなにひとつ通じ合わない感覚にもどかしくなる。  ……苦しい。まるで息ができなくなったみたいに苦しい。  泣きたいような気持ちで携帯を握れば、その携帯から同じように、まるで泣きそうなくらい震えた久坂の声が聞こえてきた。 「なんだよそれ。そういうのは女子に言えよ。……頼むから、そういうの言わないでよ。俺、すげーつらい」 「──つらいって、なんで」  思いがけない言葉に、呆然と辰巳は問い返す。  久坂の声は、身体の奥から絞り出すように苦悶に歪んで、かすれた。 「ごめん辰巳さん。俺、あんたと会うのすげーつらい。あんたのことが好きで、好きで、好きすぎて、つらい。だからもう辰巳さんに会えない。……本当にごめん」  久坂、と辰巳は名前を呼ぼうとした。けれど唇は固まったかのように動かなかった。
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