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   ──彼女いない歴八年。仕事はときどき死ぬほど忙しいときもあるが、やりがいはあるし不満はない。たまに同僚や友人と飲んだり、ちょっとした遊びを楽しんで、日ごろのストレスを発散する。休日は好きな映画を見て好きな本を読んで、そうやって好きなように暮らし、飯を作って食べて生きるだけでもう十分なのに。  ……なのに、どうしてこんなに寂しい気持ちになるのだろう。  最近残業が多いな、と辰巳は自分でも思った。仕事の能率が下がっている気がする。メンタルの打撃は、生活のあちこちに浸食しようとしていた。  相変わらずそういうことに気づいているのか、いないのか、夕実は辰巳に尋ねてきた。 「そういえばこの間の合コンから、なんかないんですか」 「……なんでおまえにそんなこと報告しなきゃいけないんだよ」 「そんなの当たり前に私の後学のためじゃないですか!」  胸を張って夕実が言い切った。辰巳の恋路に興味があるわけではないらしい。 「……俺、ときどきおまえのことすごいと思う」 「お、とうとう私の魅力に気づきましたか」  そんな会話をしていると、ふと前の席に座っている同僚が嬉しそうに顔をあげた。辰巳より四つ年上の彼は既婚である気軽さからか、二人をくっつけようと試み続けてきた同僚のひとりだ。 「なんだ、どうした、五年目にしてようやく二人の関係に変化が起こるのか!」  辰巳と夕実は顔を見合わせた。 「ないな」 「──ないですね」  意見は完全に一致して、毎度のことながら「なんでダメなんだよー」と先輩が唸った。  なぜ夕実じゃいけない?  それは辰巳自身も不思議だった。気安さはまるで男友だちと同じで、仕事の話で盛り上がるし、お笑い好きの彼女とは趣味は異なるが、それなりに気も合う。なにより彼女は女性だ。  なのになぜだろう。彼女ではダメなのだ。──なにかが違うのだ。 「もうちょっと二人とも歩み寄る気はないの?」 「先輩、先輩は恋愛っていうのをまるで分かっていませんね」  既婚の大先輩を前にして、夕実はまるで自分が恋愛のエキスパートのように首を振った。 「ほんのちょっとでも、好意っていうのは伝わるんです。そういうところ女は敏感ですからね。たとえ最初は好きじゃなくても、相手にわずか欠片でも好意があるのが分かれば心も動きますし、歩み寄る気にもなります。でも辰巳さんは私に対して女子としての好意はありません」 「……それはおまえもだろう!」 「ま、そうなんですけど。そういう意味では相思相愛ですよね?」  軽い調子で同意を求められて、辰巳は「確かに」と頷いた。  好意は伝わる。相手に好意があるのが分かれば心も動く。  ……居心地が良いと思っていたのは自分だけじゃないのは、辰巳も分かっていた。お互いがどんなふうに相手のことを感じているのか、一緒にいれば分かる。あの水が合うような気持ちよさを彼も感じていたと、そう思う。  だけど、まさか彼があんなふうに思っているなんて──。 「おまえら、仕事まだかかるの? 久しぶりに飲みに行かない?」  ふと仕事とは関係ないことに意識を奪われていた辰巳は、え、と間をおいて顔をあげた。フロアの壁にかけられた時計はちょうど八時を差していて、飲みに行くにも遅くはない。すぐに夕実が「あ、いいですね」といつもの身軽さで応えて、その隣で辰巳は戸惑った。  いつもなら、こういう誘いには乗る方なのだが。 「……俺は、今日はちょっと」 「え、行かないんですか!? なんかあるんですか。デートですか、合コンですか」 「もう八時だぞ。なんにもねえよ!」  途端に夕実がうきうきと食いついてきて、手加減なく辰巳は言い返していた。気分が落ちているときに、そういうことを言われると余計に腹が立つ。 「じゃ、また映画か? 本当に好きだよなあ、おまえ」  辰巳の映画好きは会社では知れ渡っている。先輩に指摘されて、そんな予定はなかったが「まあ、はい」と曖昧に辰巳は頷いておいた。明日返却しないといけないレンタルDVDを見ていないからそれを見るという用事はある、と言えるかもしれない。  けれど本当は映画を見る気すら失っていた。  いつもの習い性で週末にDVDを複数本借りたが、結局一本も見られていない。ぼんやりしていたこの二週間の間に見たい映画がいっぱいあったはずなのに。  ──久坂は。  前に見たいって言っていたあの映画、久坂はもう見ただろうか。 「っ、」  不意にぎゅっと心臓を掴まれたように感じて、辰巳はキーボードを叩く手を止めた。急に足元がぐらぐらと不安定になって、まるで息が詰まるような感じがした。……ダメだ。これ以上、ここにいても仕事にならない。  辰巳は手早く今やっている仕事を切り上げて、日報も書かずにPCの電源を落とした。鞄を手に立ち上がると、すかさず隣から「早っ、ついさっきまで普通仕事してたのに!」と文句が飛んできたが、構わずにまだ残っている先輩と後輩に会釈した。 「お先に失礼します、おつかれさまです」  そうして後ろも見ないで事務所を出ていく。  事務所の入ったビルの外に一歩出ると、むっとした熱気が押し寄せてきた。地面はまだ濡れていて、夜の闇に包まれた空は重い雲に覆われ、まだひと雨来そうな天気だ。朝のテレビでお天気ニュースキャスターが「週末は雨。この雨が終われば本格的な夏の到来です」と言っていた。  もう七月も半ば。  ……久坂が、苦しいと告げたのはもう二週間も前のことだ。  つらいと久坂は言った。辰巳に会うのがつらい、と。そんなふうに言っている相手に連絡をするほど、辰巳も無神経ではない。あの日、握りしめた携帯から聞こえた震える声が告げた告白を無視できるほど強くもなかった。  ──だけど俺も久坂も男じゃないか。  どうしてこんなわけのわからない、面倒な状況になっているのだろう。  あの心地良い時間が、空気が、嘘のわけがないのに、どうしてそれがつらくなるのだろう。久坂は会うのがつらいと言ったけど、辰巳は会えないのがつらかった。会えないのが寂しかった。  辰巳は久坂に会いたかった。  ……なにをやっているのだろう、と辰巳は自分でも思う。  明らかに考えなしのバカだ。  翌土曜日の午後四時、辰巳はハンバーガー屋の二階席から外を眺めていた。以前、久坂と一緒に来たことのある店だ。  テレビの予報通り天気は雨で、梅雨の最後の一滴まで降らせんばかりに強く、まるで雨が街を飲み込んでしまったかのようだった。目の前の窓は濡れ、外の景色を水滴の中に沈めている。  久坂がひとりで暮らしている部屋はこの近くだった。  映画館が近いから、という理由で選んだ部屋は、ここから徒歩五、六分と言っていた。窓から見下ろせる大通りに垂直に交わるアーケード街を通って駅に行くんだ、と。  今日は雨だから、駅に行くにしろ駅から帰るにしろ、きっとアーケードを通る。  一時間ほど前に店に来て、ハンバーガーとポテトとコーヒーのセットにチキンまで付けたけれど、すでにMサイズのコーヒーさえ残り少なくなってきており、改めて辰巳は、自分はなにをやっているのだろうな、と思った。  こんなのはおかしい。付け回そうと思っているわけではないが、まるでストーカーまがいだ。自分でも分かっている。  だけど自然に足が向いた。来ずにいられなかった。それで会えることを期待しているのか、会って話をしたいのか、顔を見られればそれで充分なのか──。 「────」  そこまで考えて、辰巳はどきりと心臓が跳ねるのを感じた。  本当に俺はなにをしているんだ。こんな気持ちは変だ、明らかに普通じゃない。  今すぐ帰ろう、と辰巳は、空になった紙カップを握り潰した。トレイを持って立ちあがり、手早くゴミを片して、足早に辰巳は店の中の階段を降りる。  店前の通りを渡る信号は赤で、濡れた路面を車が行き交っていた。雨の当たらない庇の下で、信号が変わるまで待ちながら、辰巳は胃の奥が浮くような感覚を持て余した。  ──だってこんなのはおかしい。  会いたくて苛々して、会えなくて苦しくて、会えることを期待して家の近くまで来て。気持ちがあちこちに揺れて、こんなのはまるで。  まるで自分が、久坂に──。 「ッ、」  自分の思考にどきりと心臓が跳ねたそのとき、不意をついて視界に久坂の姿が飛び込んできて、辰巳は目を瞬かせた。  いつのまにか目の前の信号が青になり、待ち構えていた歩行者が雨の降りしきる中、アーケードに向かって足早に歩き始めていた。そんな歩行者たちの背中を目で追った視線の先に、前方から歩いてくる久坂の姿があった。  一瞬、見間違えかと思った。ずっと久坂のことばかりを考えていたから。  ……そう久坂のことばかり。  まるで自分が、恋しているみたいだと、そう思って。 「……久坂」  辰巳は呆然と店頭で立ち尽くした。  細い雨にけぶる中、横断歩道を渡りきる手前で、ふと久坂が顔をあげた。足がとまった。目の前に辰巳が立っていることが信じられないことのように久坂が目を瞬く。  お互いに呆然と見開いた眼差しが、まっすぐにつながった。 「辰巳さん……?」  ファンッと大きなクラクション音が雨を切り裂いて、辰巳は我に返った。見られた、と反射的に思う。つい一瞬前に自覚したことと相まって、カアッと全身が一気に熱くなる。ストーカーみたいに待ち伏せしていたところを見られた。こんなみっともない姿を久坂に見られた!  とっさに辰巳は踵を返して、その場から逃げ出していた。 「ちょっ、辰巳さん!?」  呼び止められたのは分かったが、一度走り出した足は止まらなかった。傘を差すのも忘れ、雨に打たれながら、どこに向かうでもなくただ走る。  濡れた路面を蹴る音で久坂が追いかけてきているのも分かった。 「なんで逃げるんですか!」  おまえが追いかけるからだろ! と辰巳は返そうかと思ったが、日ごろの運動不足ですぐに息が上がり、言葉にならない。 「あーッ、もう!!」  雨音に混じってそんなふうに久坂が叫ぶのが聞こえた。  と思った数秒後には、ダッシュしたらしい久坂に「辰巳さん!」と耳元で名前を呼ばれ、腕をぎゅっと強く掴まれていた。 「────ッ」  しかしそれで急に足を止められるわけもなく、勢い足がもつれて、身体のバランスを崩しそうになる。それを支えるように腕を引かれて、気づけば辰巳は両肘を掴まれるようにして久坂と向かいあっていた。  息は乱れ、濡れた髪が額に張り付き、雨が目に入った。それでもなんとか目を開いて久坂を見やると、同じように雨に全身濡れそぼち、肩で息をしながらも辰巳をまっすぐに見つめていた。 「マジでなに逃げてんの?」 「だって、それは、おまえが、」 「っていうか、なにしてんの、こんなところで」  逃げたい、と辰巳は思った。だが腕を掴む力は強く、睨みつけるような真剣な眼差しは辰巳に答えを強いる。それがひどく落ち着かなくて、うろうろと辰巳は視線を逸らした。 「……や、それは映画、を、見に来て」 「嘘でしょ」  言下に否定された瞬間、辰巳はカッとなった。 「そうだよ嘘だよ! だからなんだよ。分かんねえんだよ、俺だって! 自分でなにしてんのか! バカみたいだって分かってるけど、でもおまえがどうしてるか、気になって……」  途中から言い返す言葉の勢いを失い、ただ辰巳は目の前の男を見上げて呟くように洩らした。 「……おまえに、会いたくて」 「────」  久坂が言葉を失ったのが、辰巳にも分かり、自分の発言の恥ずかしさに我に返った。  どうしようもなく赤くなる顔を隠したい。けれど未だに久坂が腕を掴んでそうすることもできず、辰巳は身じろいだ。 「ちょっ、離せよ! なんなんだよ、なんで俺がこんなこと言わなくちゃいけないんだよ! なんでこんな気持ちにならなきゃいけないんだよ。言っただろ! こんな胸の中ごちゃごちゃするの嫌だって、こんな面倒くさいの嫌だって。すげー嫌なのに!!」 「……俺、あんたのこと好きって言った。俺、男だよ。分かってるよね?」  辰巳が逃れるように暴れてもそれをがっしり掴んだ腕で許さず、久坂はどこかまだ信じられないような面持ちで問いかけてきた。  ──そんなこと、何度も何度も自分に問いかけた。  それでも答えはひとつだった。 「じゃあ、どうしろっていうんだよ!! おまえが俺に会うのつらいなら、俺はおまえに会えないのがつらかったよ。ふざけんなよ。それでも会いたかったんだ。おまえに会いたかったんだ!」 「辰巳さん……」  恋愛なんて面倒だと思っていた。  心を強く動かされることなんて、面倒くさくて疲れるから嫌だと思っていた。だからもう二度と、誰かを強く好きになったり、付き合ったりすることはないだろう、とぼんやりと諦めていた。  なのに気づいたら、こんなにも誰かを強く想っているなんて──。  僅かに久坂の腕の力が緩み、辰巳は腕を持ち上げて、雨に濡れる顔を拭うようにして隠した。 「……も、すげー格好悪ぃ、こんな雨の中でなにやってんだ、バカみてー」 「格好悪いなんて、そんなの俺だって、」  なにかにふと気づいたように、言いかけた言葉を久坂は途中で止めた。そして急に自由になっていた辰巳の腕をまた掴む。 「俺んちこの近くなんで、とりあえず部屋行きましょう」 「──え?」 「風邪引くから。このままじゃ」  久坂の言葉には一理ある。確かにこんな濡れそぼった状態で店に入るわけにもいかないし、と辰巳が頷く前に、久坂は返事も聞かずに腕を引いて歩き始めていた。  ……部屋に来たのは失敗だったのではないだろうか。  と、マンションの一室に足を踏み入れた時点で、辰巳は我に返った。  久坂の住むマンションは、築年数はそれなりに経っているようだが、丁寧にメンテナンスされているのが分かる小さなマンションだった。玄関のすぐ目の前が広めのキッチンになっていて、正面には白の引き戸の扉で仕切られた居室があり、右手側に見える二つのドアがトイレとバスルームなんだろう、とすぐに想像がついた。  とりあえず上がって、と言われたので、髪や肘や服の裾やさまざまなところから、水滴が垂れるほど濡れていたが、辰巳は靴を脱いで部屋に上がった。ぐしゃりとフローリングの床を踏んで、さすがにこんな濡れた靴下のまま、中へ踏み込む気にはならない。 「ごめん、ちょっと待って。いま、タオル持ってきますから、とりあえずシャツと靴下は脱いだ方が良いと思う」  言い置いて、先に久坂が中へ入っていく。手前が洗面所とバスルームだったらしく、どうやらタオルを取りにいったようだった。  シャツを脱ぐのか、と辰巳は少し戸惑った。  男同士だし、そのくらい恥ずかしがることではないのだが、好きだと言われ、それに対して「会いたかった」と返したこの状況において、シャツを脱ぐのはどうなのだろう。……いや、でも意識しすぎだと思われるのも癪だし、この肌に張り付くシャツをいつまでも着ているのは不愉快だ。  結局、辰巳は着ていたTシャツ一枚を脱ぎ、靴下も脱いだ。ジーンズも重く水を吸ってしまっているが、どうするべきだろう。 「辰巳さん、タオル」  バスルームから戻ってきた久坂はすでにシャツを脱いでいた。ごく自然なしぐさでタオルを差しだしてきて「服、洗濯して乾かします」ともう片方の手を差しだされれば、脱いだシャツと靴下を渡すしかない。濡れた服を手に洗面所に戻る久坂を横目に、受け取ったタオルで辰巳はひとまずまだ雫を落とし続ける髪と顔を拭いて、ほっと息をついた。  しかしタオルから顔を出すと、予想よりずっと近いところに久坂が立っていてぎょっとする。 「っ、おまえ、近いよ!」 「近いよ、じゃなくて。……辰巳さん、状況分かってる?」 「は?」  ぽかんと問い返せば、はあ、とわざとらしく久坂が長い吐息を洩らす。その呆れたような様子に、なんだよ、と思いながらも、前と変わらない気安い感じに辰巳はどこかほっとした。 「俺、あんたのこと好きだって言ったでしょ。それでここまであんたが俺に会いに来てくれて、それで今一緒に部屋にいて。……普通の男女で考えたら、これがどういう状況か分かるだろ」 「え、いや、でも、ちょっと待て」  今でさえ手を伸ばせば簡単に届く距離なのに、さらに久坂が一歩近づいて来て、思わず辰巳は一歩あとずさっていた。だけど後ろはすぐ玄関で逃げる場所はない。  タオルを肩にかけ、濡れた髪から雫を垂らしながら見つめてくる久坂の眼差しが、どこか熱っぽく鋭く、辰巳はぞくっと背筋が震えるのを感じた。久坂が腕を持ち上げて、ゆっくりと手を伸ばしてくるのが分かって、息を飲む。 「肉食系って言ったでしょ、俺。ずっと食べたかったものが目の前にぶらさがってるんだ──食いつくよ」 「ッ、」  伸びてきた指先がうなじの後ろ髪を絡め取った途端、びくりと辰巳は身体を震わせていた。雨に冷えた手がそのまま首を支えるようにして、引き寄せていく。  ──うわ、やばい。キスされる。キスされる。キスされる。  そう分かったけれど、逃げることはできなくて、真剣な眼差しのまま顔を寄せてくる久坂の顔を辰巳は見つめた。鼻先が触れるほどの近くで、久坂が目を閉じたのが分かった。 「……ん」  食いつくと言ったくせに、唇の落ちたそのキスは触れるだけの優しいもので。  目の前に目を閉じた久坂の顔がある。こんな近さで誰かの顔を見たのは何年ぶりだろう。そう思った途端、ずきんと身体の奥から痺れがきて、思わず辰巳は身震いしていた。  その震えを感じたのか、久坂は唇を少し離し、また角度を変えて重ね合わせてきた。ついばむように何度も何度も辰巳の唇を捕らえ、唇で優しい愛撫を施す。  気づいたら、久坂の両手が辰巳の両肩をしっかりと掴んでいた。肌に直に触れる手のひらは、男らしい大きさと厚さと強さがあって──。 「んっ、」  キスに促されて唇を開けば、とろりと舌が入ってきて、びくりと辰巳は身体を震わせた。ほぼ同時に強い力で引き寄せられて、久坂の腕の中に抱きしめられる。  雨に濡れたあとの肌はじっとりと熱を持って、吸いつくようにぴたりと重なり合った。 「──っ、あ、」  素肌が直接擦り合わされて、たまらず辰巳が声をあげると、すかさずその声を飲み込むように久坂は口づけを深めた。  舌を絡め取り、吸いついて、口腔の奥までを貪ろうとするキス。おぼろげな遠い記憶にある女性とのキスとは違って、厚い舌が攻め入ってきて蹂躙される初めての感覚に辰巳は翻弄された。  ──なんかすごく、やらしい。  そんなふうに思って、恥ずかしさと居心地悪さに辰巳が久坂の腕の中で身じろいたところで、ようやく久坂は唇を離した。だが抱き込んだ辰巳の身体を離す気はないらしく、かすかな吐息さえふれあうような近さから辰巳を見つめてくる。  今さらながら羞恥が走って、辰巳がうつむこうとしたが、首に回された腕が横から顎を支えて許さなかった。戸惑う辰巳に縋りつくように見つめてくる眼差しは、真剣そのものだった。 「辰巳さん、分かる? 俺の心臓、すごくどきどきしてる。……俺だってバカみたいに必死だよ。辰巳さんと一緒にいたくて必死で友だちのふりしてきた。でも自分でもすごい格好悪いと思うけど、全然気持ちが抑えられなくて、どうしたらいいか分からないくらい好きになって、言ったら全部終わるって分かってたけど好きだって言わずにいられなくて」 「っ、」  重ねられていく言葉が艶っぽく鼓膜を震わせて、ぞくりとする。そんな恥ずかしいこと言うな、と言おうとしたが、それすら口にするのが恥ずかしくて辰巳は唇を噛む。 「ねえ、辰巳さん、俺が好きっていうのはこういう意味だよ。こういうのひっくるめて一緒にいたいんだ。それでも、辰巳さんは俺に会いたいって言ってくれる?」  その声はまるで切なく乞うようで。  俺たちは男同士なのに、と思うのに、なぜかそう訴えることができなかった。そんな理由で目の前の男を失いたくなかった。一緒にいてほしかった。そばにいてほしかった。  ──こんなふうに心を乱されるのは、彼だけだから。  恥ずかしさを圧して、辰巳は眼差しをあげた。強く求めてくる久坂の眼差しを見つめ返し、手を伸ばして彼の背中にそっと回す。 「……会いたい」  服脱がなきゃ風邪をひくから。  そう言われて素直に「そうだな」と頷いたときには、すでに辰巳は久坂の手でジーンズをずり下ろされていた。その下はジーンズの上から雨が沁み込み少しだけ湿ったボクサーパンツ一枚で。 「っ、」  うわ、と思った次の瞬間、へそのあたりに口づけを落とされ、のけぞった途端にすぐそばの作り付けのシューズボックスに身体をぶつけていた。反射的に退けようとした辰巳の両手を掴み、久坂はそのまま僅かな腹筋の筋を沿って唇を徐々に上へ進めていく。  濡れた唇が自らの腹を這う感覚に、ぞくぞくと辰巳は背中を逸らせた。  じれったくなるほど緩慢なスピードで舌先がみぞおちを通り胸に達したところで、一瞬唇が離れたと思ったら、急に左の乳首に吸いついてきて「あっ」と辰巳は声を洩らしていた。  久坂は変な熱心さで、胸の突起を思うさま唇と舌で弄ってくる。  気づけば掴まれていた両手は、指を絡めるように重ね合わせていて、もどかしく辰巳は久坂の手を握った。 「な、んで、そんなとこっ、つか、なんでそっちばっか、」 「……じゃあ次は右」  言葉どおり、久坂は放っておいていた辰巳の右の乳首に唇を寄せると、辰巳の気付かないうちにしこって立ち上がったそれにきゅっといきなり強く吸いついた。 「っ、あ!!」  途端、まるで電気が全身に走ったかのように辰巳がびくびくと震わせる。敏感になった突起を舌で愛撫しながら、久坂は悪戯っぽく笑いをこぼした。 「右の方が感じるんだ?」 「バカッ、おまえ、バカかっ」  思わず漏らしてしまった声に熱くなって、辰巳は強く久坂を詰った。けれどそれを気にした様子もなく久坂は笑みを深め、握っていた両手をほどいてその手を辰巳の腰に回す。 「だって気づいてる? ……辰巳さんこれ、雨の沁みじゃないでしょ?」 「っ!」  辰巳の下肢はいつのまにかボクサーパンツを押し上げ、布地の色を変えていた。  あまりの恥ずかしさに、いやだ、と唸って辰巳は身体をよじろうとしたが、その腰をしっかり支えた久坂の腕がそうはさせず、久坂はさきほどまで乳首を責めていた唇をそのふくらみに近づけていく。それを目の当たりにして、あっと辰巳は息を飲んだ。 「……久坂、やめろ、やめろ、バカッ、──あッ、ぁ!!」  パンツの上から食いつくように口で挟まれ、たまらず辰巳は背中のシューズボックスを握って身体を突っ張らせる。久坂はまるでそのかたちをたしかめるように食み、ゆっくりと舌でなぞりあげる。布地越しなのに、久坂の舌先が付け根の方から先端にむけて動いていくのが分かり、それがたまらなく焦れったく、痺れるように快感が全身を伝わった。  だが焦れているのは久坂も同じらしく、喘ぎ声をこらえながら腰を震わせる辰巳の姿に我慢できなくなったように、突然乱暴な手つきで辰巳のボクサーパンツをおろした。  跳ねるように飛び出したそれに、ためらいなく久坂は食いつく。 「あ、久坂ッ、久坂! それ、ダメ……ッ!」  布地越しの愛撫ですでに半ば勃ち上がっていた辰巳の下肢は、久坂の口の中で膨らみ硬くなり、どうしようもない快感を訴えた。  口の中で吸い上げるだけでなく、舌先でなぞったり、先端をつついたりしながら、空いた手のひらは辰巳の臀部から内腿にかけてを撫で上げたり、際どいところをかすめたり、ときおり膝裏をなでたりして、久坂は辰巳を追い詰めた。  快感に腰から下は甘く痺れ、崩れそうになる身体を辰巳はシューズボックスを掴んだ手でなんとか支える。 「久坂、俺、も、無理……ッ」  暗に射精したいと懇願したつもりなのに、逆に久坂は「ごめんね」と言って、下肢から唇を離して愛撫を緩めた。たまらず熱い吐息を辰巳は吐き出す。  気づけば辰巳だけが全裸で立ったまま、唾液と先走りの蜜で下肢をべとべとに濡らしている。しかも場所は玄関で、気密性の高いマンションとはいえ扉一枚向こうが外という状況に、ひどく後ろめたい気持ちが湧き、カッと全身が熱くなった。 「おまえ、なに、こんなとこでッ!」 「──ごめん。玄関とかキッチンとか、シチュエーション的にはいいけど、やっぱり初めてだったらベッドだよね」  辰巳の文句にあっさり久坂はそう応えて身体を起こすと、辰巳の腰に腕を回し、シューズボックスに張り付いた身体をエスコートするように中へ促した。それは問答無用の強引さで、辰巳が戸惑う隙も与えずに、あっという間に久坂はキッチン奥の居室に連れ込み、入ってすぐ左手側にあるベッドに辰巳を押し倒していた。  電気の点いていない部屋は薄暗い。カーテンは開かれていたが、雨のせいかすでに窓の外は暗くなっている。  辰巳をベッドに横たえたところで、久坂がようやく濡れたジーンズを脱ぎ、パンツ一枚になった。改めて見やった身体はしなやかでどこか雄くさく、それをぽかんと見上げているうちに、当たり前のように久坂が覆いかぶさってきて、慌てて辰巳は声をあげた。 「っ、待て、久坂、なんで俺が下なんだ!」 「……久しぶりのセックスなんですよね、辰巳さん」 「そう、だけど」 「だから手順だとか、うまくできるかどうかとか、悩まなくていいですよ。初めてだから。面倒くさいこと全部、俺に任せてくれれば」  なんかそれは違う気がする──。  だが、反論しようとした言葉はキスで封じ込められた。まるでさきほど下肢を吸われたときのように、強く舌を吸われ、口の中を愛撫される。  それに気を取られている間に、久坂が辰巳の足を割り、大きく開かせて膝を立てさせていた。  濃厚なキスをされながら、今度は手で下肢を愛撫される。久坂の大きな手に包まれ、力強く擦り立てられて、すぐにまた辰巳は弾ける寸前の高みまで追いたてられた。  けれどあと一歩のところで愛撫を緩められ、辰巳はたまらずねだるように声をあげていた。 「久坂ぁ……っ」  だけど久坂は変わらず「ごめんね」と言うばかりで。  謝るぐらいなら早くなんとかしろ、と腰を震わせた辰巳が、その謝罪の本当の意味を知るのは、さらに我慢し続けたそのあとのことだった。 「──や、それ、や、……あっ、ん、」  男同士はここでつながるって知ってますよね、と囁かれ、制止する間もなく、久坂は辰巳の身体の奥を指で浸食してきた。最初はとろりとした液体と一緒にゆっくりと入ってきた指は、やがて奥を探るようにかき回され、何度も出し入れされ、辰巳の文句はもう言葉にもならず、息を乱して喘ぐばかりになっていた。  高ぶらせるだけ高ぶらされた辰巳の下肢は、直接触ってもらえない不満に勢いを失いながらも、先からとろとろと蜜を零し続けている。 「……辰巳さん、そろそろ入れていい?」 「ッ、聞くなっ、バカ!」  耳朶を舐められながら甘い声に囁かれて、たまらず辰巳は憎まれ口を叩いていた。  ダメと言わない自分が不思議でたまらない。正面から両足を高く抱えられて、恥ずかしい格好をさせられているのに抗わない自分が信じられない。ありえない。  今まで男同士でなんて想像したこともなく、考えられないような事態のはずなのに。  ──なのに、なぜこんな当たり前に身を任せているのだろう。  こんな濃厚に絡み合うセックスは、ひさしぶりどころか初めてだった。受身であることだけでなく、こんなにも熱く求められ、甘く睦言を囁かれるのも初めてで。 「っ」  入り口にあてがわれた硬い熱が、ぐっと身体の奥深くに押し入ってくる初めての感覚に、辰巳は思わず息を詰めた。辰巳の強張りを宥めるように、ゆっくりとそれは奥深くまで入りこんできた。 「──あ」  熱い久坂自身が身体の内側で脈打つのを感じて、ハッと辰巳はそれまでぎゅっと閉じていた瞼を開く。  目の前には久坂がいて、身体の中の熱に負けないくらい熱っぽい眼差しで辰巳を見下ろしていた。ゆっくりと身体を伏せて、呆然としている辰巳の額に軽いキスを落とすと、久坂は柔らかな笑みを零す。 「痛いですか?」 「……や、だいじょうぶ」  気遣われている、ということがなんだかくすぐったくて肩をすくめた途端、身体の奥の存在を強く感じて、思わず辰巳は艶めいた息を吐いていた。  久坂が笑みを深めて、今度は唇にちゅっと軽やかなキスを落とす。 「ごめんね。でもなんか、ずっとこのままでいたい感じ」  バカ、と辰巳は言い返そうとして、やめた。  自らの奥深くを貫く熱はその存在感を痛いほど主張し、ずっとこのままなんてありえないけれど、彼の気持ちがすごくよく分かった。  久しぶりのセックスや男同士であることや、そんなことがどうでもよくなるくらいに、馴染んでいるような感じ。  そう、まるでこのまま溶けて、ひとつになってしまえそうな気がして。 「……うん、俺も、なんか離れたくない」  そう言って辰巳は、まるで水の中にいるように甘い息継ぎをした。 Fin
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