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 信は丸物の塗師(ぬし)で、塗部屋の壁際に置かれた「風呂」と呼ばれる棚の中には、漆を固めている最中の椀や杯が並んでいた。傍らには、木地(きじ)の器が大きさ毎に木箱に入って積まれている。足の悪い信に合わせ少し高く作られた作業机の上には何種類ものヘラや刷毛が並ぶ。ハルに机の斜め向かいに座るよう指示すると、信はまず机と周辺を綺麗に拭き清め、木の椀を一つとって座った。羽根で塵埃を払うと、まずは生漆(きうるし)錆漆(さびうるし)で下地を作り、一工程ごとに風呂でかわかしながら、下塗り、研ぎ、中塗り、研ぎ、上塗りと塗り重ねていく。  呼吸も忘れ食い入るように一部始終を見つめていたハルの目の前に、完成した朱色の器が差し出された。おそるおそる両手で受け取り、目の高さまで持ち上げると、ほう、と小さな息をつく。塵埃どころか塗りのムラや刷毛の跡なんて全くなく、初めからこの色であったかのよう。東京で見た眩い艶や光沢のある漆器とは異なる、温かみを感じるほど照りの柔らかな朱だった。深く澄みきった瞳に余すところなく映しきると、ハルはそうっと器を信に返した。  問屋は信の家から通りを挟んで数軒先に、大きな屋敷を構えている。翌日訪ねると、入口にいた数名が憤然とした面持ちで駆け寄って来た。 「野口さん、待っでだし。すぐに旦那様のどごろへ」 「なんじょしたんですか?」  袖を引かれ困惑を示す信に、後ろの親子も顔を見合わせる。一人が忌々しそうに吐き捨てた。 「薩摩の奴らさ来だ。あいづら、金に物言わせでうぢの商品独占する気だ」 「な……!」  信以上に顔色を変えたのは庄助である。 「案内してくれ!」 「失礼!」  音を立てて障子を開くと、手前に立つ男二人が振り返った。どちらも西洋風の高級そうな衣服に身を包んでいる。その奥、会津塗が並んだ机の先で、着物姿の老人が腕を組んで座っている。その眼光に思わずたじろいだ庄助の横から、追いついた信が声を掛けた。 「旦那様、菱松商社の近藤様です」 「うむ」  重々しく頷いた主人は、改めて先客二人を見上げる。 「約束さあっがら、本日はお引き取りくなんしょ。これらは、菱松さんとの取引の品だ」 「ほう、菱松」  両側からにじりと距離を詰め、庄助を上から下まで値踏みする。 「菱松とはあん菱松やろう?」 「金儲けの下手な菱松」 「……お二方は、どちらの商社の方ですかね?」  低く震えた声で問うた庄助に、男たちは鼻で笑うばかり。 「なぁに、岩倉様の御用達の商社じゃ。おはんに名乗るような名はなか」 「何せ大隈様の後ろ盾ばあっようなところじゃって、おいそれと名乗れんのじゃ」  出てきたのは政界の重鎮の名ばかり。二人は主人へと向き直ると、慇懃にお辞儀をした。 「そいでは二刻ほど、どっかで待たせてもらいもす。菱松さんとうちとどちらが商談の相手に足っか、よう考えちょってたもんせね、白木さあ?」  二人がいなくなると、庄助は改めて、問屋の主人の前に腰を下ろした。 「……改めまして、菱松商社の近藤と申します」 「白羽屋の白木貫太郎です。とんだ無体を晒し申し訳ございませぬ」  軽く頭を下げた貫太郎の顔は、苦渋に満ちている。 「儂の手落ちです。店先で商談があると言ってきだと下の者が申しだがら、貴方と勘違いしてあげつまった。ぬがりなぐ準備しだのが仇になりまして、違うど気づいだ時にはもう」 「何者ですか? 彼らは」 「高倉商会の山路と横家、と名乗っとりました」  事実ならば三大商会の一つである。まっとうに商談を競われたら、菱松にはまず勝ち目がない。黙り込んだ庄助に、貫太郎はそっと首を振った。 「これは、長いごど続けできた、菱松さんどの商談です」 「……ですが、あの調子では」  望む成果を得られるまで居座られるに違いない。白羽屋が商う塗物の中には菱松だけでなく、元来の贔屓筋との縁もある。一度要求に応じてしまえば、白羽屋の信頼はあっという間に地に墜ちる。 「……金では、ねぇんだ」  白羽屋の主人の拳が握られた。 「大事なのは、いぐらで買われてっだがでねぇ。誰に、どう買われてっだが、なんです。んでねば、野口をはじめ、うぢで頑張ってくれでる職人だぢが報われねぇ」  その時、後ろで信と共に控えていたハルが進み出て、空いた席の一つにふわりと腰を下ろした。 「ハル?」 「旦那様、お初にお目にかかります。近藤庄助の娘、ハルと申します」  三つ指をつき挨拶をすると、ハルは燃える瞳で貫太郎を見据えた。 「おそれながら、私の腹案をお話ししても?」  きっちり二刻後に現れた山路と横家を、貫太郎は笑顔で出迎えた。 「先ほどは失礼をばいだした。ささ、こちらへ」  案内の先には、朱や黒のお椀、杯、重箱、盆、箸などが十ほど並んでいる。 「まずはじっくり見てくんつえ。お取引先に見合っだものがあれば」 「いや、これだけ質が良かれば、わざわざ目を凝らす必要もなかやろう」  言葉をぴしゃりと遮り、二人はにんまりと笑んで両手を広げた。 「全ていただきもそう。値段はそちらの言い値で。何なら先ほど来とった菱松のお値段を聞かせてもれもうそうか。倍出しもす」 「……本当だがよ?」  低くなった声音を訝しんだものと受け取って、呵々と笑い声が響く。 「なぁに、我ら薩摩隼人、決して嘘など吐きもはん」  言うなり、手近にあった箸をひょいと手に取った。 「こいなど、何とも良か色合いでごわす。一際赤い朱が光沢を放って艶やか」 「外国の者にも受けが良かじゃろう。万博で会津塗は知名度を上げもしたで、食いつくに違いあいもはん」  そこでようやく二人は、周りの皆が真顔で黙り込んでいることに気がついた。 「語るに落ちたわね」  凜と響く声と共に、奥からハルが父親と共に歩み出る。 「貴方たちが今手に取ったその箸は、会津塗ではありません」  瞳に宿した怒気を隠しもせず、庄助はあえて淡々と告げた。 「我々が持っていた、輪島塗の箸です」 「な……!」  口をせわしく蠢かすも言葉は出ず。辛うじて飛び出した「騙しちょったか!」という叫びを、ハルは嘲笑と共に切り捨てた。 「騙してなんかいないわよ。あんたたちがあんまりにも偉そうにしているから、どれだけすごい商人なのかをちょっと確かめてみただけ。でも、これじゃ岩倉様や大隈様の面目も丸潰れね。高倉の取締役が知ったら、何を思うかしら」  掴み掛かろうとした男たちの前に、信と庄助が立ちはだかる。 「僕らは会津塗の職人であるごどに誇りを抱いとりやす。戊辰のあど、必死に再興して、万博にこぎ出して、ようやぐこごまで戻ってきた。再び荒らさっちゃるんは、ごめんだ」 「輪島塗と会津塗。その性質は全く違う。それすら見抜けないのであれば。違和感すら覚えないのであれば。……貴方たちに商人を名乗る資格は、ここの大事な塗物を扱う資格はない!」  出て行け、と職人の誰かが叫んだ。  出て行け。こごがら出て行け。お前(にし)らぁに、おれらの大事なこどもを、一づも託すものか。ならぬことはならぬのだ。今すぐ、出て行け!  すぐさま合唱となったその声に、二人は方々の体で去って行った。帰り際、ハルの方を一睨みして。  ほう、とついた息は誰のものであったか。安堵に緩んだ空気の中で、ハルと庄助は貫太郎にその手を取られていた。 「ありがでぇなし」 「我々にとっても見過ごせない敵ですから」  しっかりと握り返して頷く庄助の横で、ハルもカラリと笑う。 「こんな小娘の案を採用してくださって、光栄です」 「……野口に、聞ぎましだがら。ハルさんが、なじょな瞳で会津塗を見でくれっちゃかを」 「信さんが?」  隣で信が頷く。 「昨日、えらぐ良い眼さしとっだがら」 「だって、本当に、美しかったのよ。優しい光が、そっと寄り添っているようだった」  柔らかな朱の色と、漆の艶。最後の磨き上げがないぶん、木の温かみがにじみ出てくるよう。決して華美ではないけれどよく手に馴染み、目を奪われる強烈さはないけれどずっと見ていたくなる優美さがある。 「加飾を施されると、特に柔和さが際立つのね」  松竹梅と破魔矢の会津絵が描かれた黒塗りの器を取る。 「こんなに色鮮やかに描かれても優しいのは、元の塗りや加飾の技法が繊細で気品があるからよ。この黒塗りの光沢は、そっと手に乗せた蛍のようね」  次第に熱のこもるハルの弁に、貫太郎は目元を潤ませながら何度も頷いた。   倉を見に行ったハルが消えたのは、それから数刻後のことだった。
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