プロローグ

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プロローグ

 やたらと手が震える。カード式の鍵をスロットに差込もうとして、上手くハマらない。落ち着けオレ、と3回唱えた頃に、ようやく扉は開いた。  足を玄関に踏み入れて、まずは深呼吸。湿った冷たい空気が肺に流れ込んできた。 「とうとう始まるのか、オレのタワマン暮らし……!」  素足で通路に音を立てる度に、実感が色濃くなっていく。やってきたリビングは20畳のフローリング仕様。汚れの無い床が電灯の光をピカピカと跳ね返してくれる。  白色を基調としたアイランドキッチンも眼に眩しい。料理とは無縁の人生なのでロクに活用できないだろうが、醸し出すおシャレな雰囲気だけでも気分を高揚させた。  ここに未来の奥さんが立つのだ。まだ見ぬ可愛らしい女性(だれか)の姿を想像するなり、心はバラ色に染まっていくようだった。 「さてと、夜景の様子はどうかなっと」  リビングの窓を開け放つと、秋の夜風が吹き込んできた。ほどほどの冷たさが肌に心地よい。シャツの裾が捲れあがるのも気にせず、ベランダに踏み入った。  5階から眺める景色は絶景とまではいかないが、十分なくらい見晴らしが良い。遠くに見える駅から真っ直ぐ伸びる大通りを、車がヘッドライトとともに走っていく。  目に付く看板は、有名コンビニの他にもレストランやら大型スーパーがあり、日常生活には大変ありがたいラインナップだ。マンションがもう少し駅から近ければとも思うが、それは無い物ねだりだろう。まさか建物ごと移動するわけにもいかない。 「まだ誰も越してきてない……当たり前か」  ベランダから上下を見渡しても、灯りの点く部屋を見つけられなかった。  それも当然で、入居が待ちきれなかったオレは、前倒しの引っ越しをお願いしてしまったのだ。営業担当のおっちゃんがアチコチ電話をかけて、スマホ片手に何度も頭を下げる事でようやく実現した。ごめんよ、面倒な客でさ。 「おっと、AIの設定をやっておかないと」  リビングに戻り、壁に備え付けられたモニターの電源を入れた。しばらく待つと画面には1人の女性が現れ、恭しい仕草で頭を下げた。  バストアップで映し出された姿はどこか目を惹く容貌だ。金色で指通りが滑らかそうな長髪。頭頂にあるヘアバンドは幾何学的な柄で、少し神秘的なデザイン。そして首から下は修道服にも似たシックな装い。全体的に清廉な雰囲気といったところだ。  まぁそれらを差し置いて、瞳の白色部分が全て黒一色である事の方が圧倒的に目立っているのだが。 「この度はご契約いただきまして、ありがとうございます。早速ですが、只今よりシステム設定を開始致します」  彼女は各部屋に用意された『アドミーナ』という名の人工知能だ。オレが一声かけるだけで、日常生活のサポートを頼めるらしい。天気予報やら交通情報、ニュースの読み上げ機能だけでなく、電化製品の使用やら施錠までも幅広く対応してくれるとの事。実に頼もしいし、独り暮らしのオレには嬉しい設備だと感じる。 「まずは基本情報の設定から参ります。お名前をフルネームでお教えください」  聞きやすい声だが、やはり機械音声が持つ独特の響きというか、平べったい口調が耳についた。この感覚もいずれ慣れるんだろうか。 「氏名は多喜進平」 「世帯主にタキシンペイ様を登録致しました。年齢とご職業をお願いします」 「28歳、サラリーマン」 「ご同居中の方、あるいはご予定の方はいらっしゃいますか?」  この質問は地味に刺さる。遠回しな嫌味に聞こえてしまい、せっかくのお祝いムードに水を差した。しかしオレも良い大人だ。さもノーダメージのように軽い口調で切り返してやった。 「いないね。当面は1人で住むつもり」 「承知致しました。引き続き『お好み設定』に入りますが、これは後ほどでも結構です。いかがなさいますか?」  ここで時計の針を確かめると、時刻は11時に差し掛かろうとしていた。眠るには少し早いが、目蓋は割と重たい。朝からの引越し作業が堪えているんだろうと思う。 「それは止めておく。明日以降に気が向いたら設定するよ」 「承知致しました。お気に入りの料理やスポット、芸能ジャンルなどを設定いただくと、お耳よりの情報をいち早くお届けできます。是非ご利用ください」 「分かった。そのうちな」 「本日もお疲れさまでした。上質で快適な生活をお送りいただけるよう、誠心誠意サポートして参ります」  オレは返答の代わりに欠伸をかき、すぐに寝室へと向かった。注文したベッドはまだ届いていない。あるのは毛布と枕、そして壁沿いに積み上げた段ボールの山くらいだ。明日も休日返上して開封作業をしなくてはならないが、不思議と苦では無かった。やっぱり新生活とは不思議と心が躍るもんだ。 「さてと、ボチボチ寝ようか」  明日は大型家電やらが届く予定だ。他にも当座の食材も買ったりとか、やるべき事はたくさんある。今夜は夜更かししないで寝るに限る。 「こんな部屋に住んでたら、やっぱりモテちゃうかな?」  胸の内はバラ色だ。まだ見ぬ恋人を、そして奥さんを想像するうちに、深い眠りへと落ちていった。  翌朝に待ち受ける衝撃の事など、何も知らないままに。
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