伊織

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伊織

「伊織!」 そう俺を呼ぶ声は明るいはずなのに、俺の心は暗くなる。 「伊織、今日の授業楽しかった?」 「別に…。いつものおんなじよーな長ったらしい話し聞いてきただけ」 「そんなこと言うなよ。外国語学科、案外楽しいだろ?伊織めちゃくちゃ英語できるじゃん。第二は…フランス語だっけ?その次がスペイン語?」 「スペイン語は英語と通じてっから、別にそんな大変じゃねえよ。多分半年くらいで喋れるようにはなるんじゃねえの。」 「すげーな!俺は英語基礎固めるだけで精一杯だわ…」 とか言ってるくせ、お前だって語学三つも取ってるの。俺は知ってんだかんな。 「伊織の家行っていい?」 「え、今日?」 「いや。別の日。都合のいい日があったらでいいよ。」 「そっか……」 そうだよな。こいつが無理言ってきたことなんてほとんどない。 相手のテリトリーにずけずけ入るくせして、こいつはいつも引くべきタイミングを知ってる。だからこいつの周りには人が多いし、本気で狙ってる女が多い。 それでも、こいつが本当に好きなのはーー 「伊織……やっぱ、今日…ダメ?」 あいつだけなんだよな。 「んっ、あっああ‼︎伊織、そこ、やだぁ!」 「良いの間違いでしょ…!」 「もっと、奥っ!奥まで来てよっ、お願い!」 俺はその細い腰を掴んで、乱暴に下から突き上げる。 壊れちまいそうな細さに少し怖くなる。 乱暴っぽくしてやるのをこいつは若干好む。 それがいつかのカレが仕込んだとか考えるの、もうやめたいのに、思考は止まらない。 「忘れて。忘れてよっ…!」 「あぁっ‼︎」 「俺じゃダメ?」 「お前が……おまえがイイよ、イオリーーー」 伊織。それは俺が借りてるだけの名前。 本物の伊織ーー「後藤伊織」は、半年前に死んでいる。 不慮の事故だった。 車の後部座席で眠っていたこいつは、何も知らない瞬間に事故に遭い、何も知らないままに恋人を失った。 その時のショックで、こいつは俺のことを「伊織。伊織!」と呼ぶようになった。 もちろん本物の伊織は死んでる。 こいつの本当の恋人、後藤伊織はどんなに名前を呼んでも帰ってこない。 きっとこいつもそれをわかってる。 わかってるけど受け入れられないから、俺を代わりに「伊織」と呼ぶのだーー。 「まだ治らないの?あいつの伊織呼び」 「うるせえ。本人が覚えてないんじゃ直させようもないだろ。」 「甘いねー。甘やかしてるねー。」 「絶対楽しんでるだろ、お前…」 「でもいい加減、そろそろ離してあげた方がいいんじゃないの?」 「医者から、事件の事について話すのはやめとけって釘刺されてるんだよ。トラウマ?PTSDがなんとか…って言われたけど。でも、このままにしとく訳にもいかねーしな…」 こんなふうに考え込む俺は珍しいのかもしれない。 友人はジロジロとこっちを見ている。 「正直わかんねーんだよ。このままにして卒業して、お互いきっと別の会社に入るだろ?そしたら俺たちには別の生活ができて、お互い違う生活を生きるようになる。そのうち自然に「伊織」っていう存在のこともあいつの中から消えていくのかもしれない。だとしたら、俺が無理やりあいつを説得するようなことしなくてもいいんじゃないかなって……」 「それは逃げの一手のような気がするな。もしその作戦が上手くいかなくて、あの子から伊織っていう存在も、中途半端なお前の存在も消えなかったら?もっと苦しむことになるかもしれない」 「そんなのわかってるよ。だけど俺にどうしろって言うんだよ、俺は伊織じゃないし伊織の代わりもできない」 「本当にそうかな?」 その返答に、俺はぐっと奥歯を噛み締めた。 俺はあいつのことが好きだ。 伊織がいなくなって良かったなんて1ミリも思ってないけど、あいつが心の底から好きだった人間がいなくなって、ある意味、俺にはチャンスが与えられた。 こんな考え方は最低だって分かってる。 それでもあいつの隣にいるのをやめられないのは、たとえ俺が伊織と呼ばれ続けてもあいつの隣にいられるならそれでいいって思ってるからだ……。 「いい加減やめてあげなよ、あいつが不憫で仕方ない」 カオリが、タバコの煙を吐き出しながら、僕に言う。 「とは言ってもねぇ」 「やめ時を見失ったなんて、馬鹿な理由言うなよ」 「まさに君の言うとおり、だから困る」 そう、僕は別にあいつのことと伊織のことを混同なんてしていない。 確かに僕はあの時、後部座席で寝っ転がっていて、事故の瞬間は全く見ていなかった。 けれど事故の衝撃で遠くに投げ出された伊織の体と血液の量を見て、「ああもうダメなんだな無理なんだな」。 頭の中で自分の声が響いたのはしっかり覚えてるんだ。 「たちが悪いな、どうしてそんな遊び始めようと思ったんだ?」 「遊びじゃないよ、伊織のことが好きなのは本当だ。だけど、あいつのことをからかい混じりに伊織って呼んだ時、あいつが俺のことを見てくれた気がした」 「……歪んでるね、お前の感性は歪みきってるよ。事故で変なとこでも打ったんだろう」 「ふふっ、そうなのかもね」 多分僕とあいつと伊織の関係はよくわからないところで繋がっていて、誰かがその関係の中から一抜けぴ、しようとしても、きっともう出られないくらいがんじがらめになってしまっているのだろう。 「何も思い出さないか?」 と聞かれましても。 「何も思い出せないね」 思い出すもなにも、全部覚えてるんだから仕方ない。 僕と第2の伊織は、あの日の事故現場に足を運んでいた。 本物の伊織はひどく顔が綺麗で、大学の中にもファンクラブがあった。 事故があって、伊織が死んでから数ヶ月間は、女の子がここに足を運んで花を供えていたけれど、事故からしばらく経った今は誰も花を持ってきている様子はなかった。 人の念なんて軽いもんだな。いくら好きだった人間でも、ちゃんと忘れるってことだ。 「その何だ、記憶みたいなのは、今思い出せるのか?」 「……どうだろう。思い出したくないな」 「そっか…。医者はなんて言ってるんだ?」 「無理に思い出すことはないって。だけど、しばらくはフラッシュバックとかに苦しめられるかもとは言ってた。」 「フラッシュバックって、」 「関係のない瞬間に辛い記憶が突然頭の中に現れるってこと。」 「そうか……」 第2の伊織はすごく優しい。 「伊織、………ううん。里美。」 僕は初めて、第2の伊織の本当の名前を呼んだ。 「お前、今、俺の名前……!」 「ごめんね、僕の茶番に付き合わせちゃって。」 「茶番?」 「別に俺は意識の混濁もないし、お前のことを本当に伊織だなんて思ってなかったよ。」 「でも……じゃぁ医者が言った事は?」 「その症状が出る可能性は否定できないって。だけど、PTSDっていう障害名がつくわけではないらしい。PTSDっていうのはもっと重症な人のことを言うんだって。それに、僕は伊織との関係をきちんと心の中で清算できているから、そんな辛い状況にはならないだろうってお医者さんは言ってた。」 僕は伊織が横たわっていた場所に手を合わせる。 「だって、僕が言い出したことだもん。僕が誘ったんだ。一緒に死のうって。」 それから僕達は近くの売店でアイスクリームを買って、歩きながら食べながら、本当のことを話した。 僕は生きるのがつらかったこと。伊織も僕と同じで生きるのが辛くて、だから、僕らは一緒にいたってこと。 あの日はとても寒い冬の日で、山奥に2人で車を止めて、最後の日を過ごそうって約束していた。 その途中で、凍った路面を滑った自動車と、僕らの乗っていた車が事故を起こして、予想外にも、伊織だけが天国に行くことに成功してしまったこと。 「じゃあ、お前これからどうするの?伊織がいなくなった後、どうやって生きていくつもりなんだよ。これは予想外の結果なんだろ?」 「うん、わかんないからお前のこと、伊織って呼び続けてた。だけど、今日わかった。俺の中の本当の伊織は、1人しかいない。そして、お前は、里美ただ1人であること。その里美はすごく優しくて、俺のバカみたいな茶番にも付き合ってくれるお人好しで、お前と過ごしてたら、生きる活力が少しずつ湧いてきたってこと」 「それはつまり?」 「死ぬのはもうちょっと後でいいやってこと!」 アイスクリームはコーンまでしっかり食べ終わった。
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