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ひこうき雲が、キリトリ線を入れるみたいに青空に伸びていた。
屋上の柵に身体を預けながら、私はぼんやりとそれを眺める。
「おい藤原、またお前か」
背後から呆れたような声。振り返らずにいると、声の主は私の隣までやってくる。
ラフなポロシャツにジーパン。あごには少しの無精ひげ。制服姿の私とは、まるで対照的。
「勝手に入り込むなって、いつも言ってるだろ」
「えー、ケンゴローが鍵の番号教えてくれたんじゃん」
「ちゃんと『山口先生』って呼べ。それに、あれは脅しっていうんだよ。ったく、めんどうな奴に見られちまったな」
ぶつくさ言いながら、ケンゴローはポケットからしわくちゃになったタバコの箱を取り出した。
「難しく考えることないって。ケンゴローはここでタバコ吸ってるのを教頭先生にバレずに済む。私は絶好のサボり場所に入れる。Win‐Winじゃん」
「どこがだよ」
ばっさり切り捨てて、ケンゴローはくわえたタバコに火をつける。吐き出された煙は、迷いながら上空へと漂っていった。
学校の敷地内でタバコを吸うなんて、当然ダメに決まってる。そして、勝手に屋上に出ることも禁止されている。先生であっても、生徒であっても。
「また夏期講習のサボりか?」
「まあねー」
「あんま心配させるなよ? 担任の小林先生とか、親御さんとか」
「あはは、タバコ吸いながら言われても説得力ぜんぜんないって」
私に言われて、自分でもそのとおりだと思ったのか、ケンゴローはがりがりと頭を掻く。日に焼けた二の腕には、じんわりと汗が浮かんでいた。
「藤原は、将来の夢とか大学でやりたいこととか、ないのか?」
「んー」
同じセリフを三者面談とかで言われたら適当に答えてたんだろうけど、今この場所には、私と彼のふたりしかいない。
「将来って、なんだろうなーって思うんだよね」
「藤原にしちゃ、難しいこと考えてるな」
「受験生にその言い方ひどくない? ほら、マヤ文明の暦だと今年の3月に世界が終わるーってちょっと話題になってたじゃん? でも何にも起こらなくてさ」
結局、世界はのうのうと続いていて。時間は流れていて。私は中学生から高校生、そして大学生になるんだろう。いっそある日突然、ポンと風船が割れるみたいに世界が終わってしまえば楽なのに。
「ケンゴローは、なんで先生になろうと思ったの?」
「俺?」
まさか自分のことを訊かれるとは思っていなかったのか、虚を突かれたような表情になる。
「俺のことなんか聞いてもどうしようもないだろ」
「いーから教えてよー。でないと今から教頭先生のとこ行っちゃうよ?」
「ったく……」
もう一度、ケンゴローは頭を乱暴にがりがりする。
「俺だって、高3のときにちゃんと将来のことを考えてたわけじゃないぞ」
「ふんふん」
「就職先のことを考え始めたのだって、大学に入ってからだし」
「それでそれで?」
「……」
少しだけバツが悪そうな顔をすると、ぷはあ、と一気に煙を吐き出して、
「好きだった奴が教師になりたいって言うから……俺も目指しただけだよ」
「ふ~ん」
「なんだよ」
「そうなんだーって思っただけだよー?」
知ってるよ。
「ケンゴローもけっこう乙女チックなとこあんじゃん」
知ってる。
あなたがもうすぐ結婚する相手が、その憧れの人だってことも。
「けっこー不純だよね」
「うっせ。理由なんて大概そんなもんなんだよ」
吸い殻を携帯灰皿に突っ込むと、すかさず2本目に火をつけた。嗅ぎなれたけれど、やっぱり煙たい匂いが私の鼻をくすぐる。
「じゃー私も先生になろっかなー」
「おい」
何言ってるんだとばかりの声。
「もっとちゃんと考えろって」
「えー? 好きな人追っかけて先生になった人に言われてもなー」
「こいつ……」
三度、彼は頭を掻く。短く切られた髪が、太陽に反射してきらりと光る。
「そうだ。私が先生になって、おんなじ学校になったら、こうやって一緒にサボろうよ」
「あのなあ、教師もそんな楽な仕事じゃないんだぞ? まあ、藤原が教師になりたいって言ってくれるのは教師冥利に尽きるけど」
「でしょー? もっと喜んでよー」
喜んでくれたなら、私もうれしい。
そんでもって、同じくらいに悲しい。
夏色の風が、私たちの身体を通り抜けていく。さわやかさと、暑さと、少しだけ海の匂いがする風。
「ね、それ1本ちょうだいよ」
「はあ?」
「だって先生いつもおいしそうに吸うじゃん?」
「あのなあ」
「くれたらちゃんと夏期講習戻るからさー」
手を合わせて、ついでにウィンクなんかもしてお願いしてみる。が、
「いくらお前でもダメに決まってるだろ、未成年だぞ」
「うわ、なんか先生っぽい」
「正真正銘の先生だ。それに、今吸ってるのが最後の1本なんだよ」
「ちぇー」
ケンゴローはタバコを指に挟んで息を吐く。生徒の隣で喫煙していることへの罪悪感と、喫煙がもたらしてくれる爽快感がないまぜになった表情。
「20歳になるまで我慢しろ。そのときは一緒に吸ってやるよ」
「はーい」
でも。
それでは遅いのだ。
私が、共有したいと望むのは。
あなたがまだ、誰のものでもない、今この時なのだから。
「ねえケンゴロー」
「ん? どうし――」
だから私は。
こっちを向く彼の唇に。
キスをした。
「おま、え」
「へっへへー。ケンゴローってば、ぼっとしすぎー」
指のタバコを落としてしまいそうなほど目を見開く彼。どうだ見たか。
「んじゃ私、夏期講習に戻るね」
「おい、藤原――」
「ケンゴローもあんまサボりすぎちゃだめだよー」
雷に打たれたみたいに呆然としている彼に手を振って、私は早足で屋上を後にする。
苦い。
一段とばしで階段をおりる。
苦い。
網膜に焼き付いている、彼の表情。唇に残っている。少しカサカサした彼の感触。
苦い。
いつの間にか、私の足は止まっていた。
「苦い……」
口の中に、彼のタバコの匂いが残っている感じがする。
ファーストキスはレモンの味なんて、誰が言ったのだ。こんなにも、苦いじゃないか。
苦くて、苦しいじゃないか。
こんな思いをするくらいなら、好きにならなければよかったのに。
こんな気持ち、どこか遠くへ捨て去ってしまえればよかったのに。
でも、無理なんだ。
廊下の窓からは、屋上で見たのと変わらない空。夏の太陽が、どこまでも青く、青く、染め上げている。
人のこころは、私のこころは、キリトリ線で上手に切り離したりできない。あの青空みたいに、ひこうき雲が通っても。全部ぜんぶひっくるめて、ひとつのこころ。
だからこの悲しみも苦しみも、喜びも。ぜんぶ、私のものなんだ。
誰にも渡さない。
大好きな彼であっても、渡しはしない。
私の一部として、大事に大事にしまって、生きていく。
「よーし、勉強するかー」
いつかまた、そんなこともあったねって、笑って言えるように。
たとえ明日で世界が終わっちゃうとしても。
今日と変わらない晴れ空を、思い浮かべながら。
私は明日へ、生きていく。
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