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キスシーン✦side秋人
朝起きてからずっと、俺は変だった。
シャワーに入るために服を脱いだのに、気がつけば全裸で歯みがきをしていた。
朝食を食べるときには、シリアルにコーヒーをかけていた。
お昼にテレビを見ようしたが、リモコンのお尻側をテレビに向けて押していたのでいつまでも付かなかった。
午後、仕事に行くため玄関を出てエレベーターに乗ってから、サンダルをはいていることに気がついた。
とにかく今日一日、朝から俺はおかしい。
ただ、その理由が分からなかった。
「おはようございます」
夕方前にロケ地に着いた。スタッフに挨拶をしていたら、監督がわざわざ俺の所までやってきて「今日はよろしくね」と言った。
「はい。今日も頑張ります」
「いや、あんまり頑張らないで。気負わないで、いつもの二人の感じでいいからね」
ポンポンと肩を叩いて行ってしまった。
トクンと胸が鳴った気がした。
そうだ、今日は蓮と――――。
「おはようございます。今日もよろしくお願いします」
後ろから聞こえてきた声に、脳よりも体が先に反応してふり返っていた。
蓮だ。脳が認識したとき、またトクンと心臓が鳴った。
「あ、秋さん、お……おはようございます」
そうだった。今日は絶対に蓮が挙動不審になるだろうと予想して、どうやっていじってやろうかと楽しみに昨夜眠りについたはずだった。
案の定、どもっているし敬語がでている。
いつもの俺ならなんて返してる?
分からない。頭が働かない。なぜだろう。
「……秋さん?」
肩に蓮がふれてきて、心臓がはねた。
「えっ? あ、ぉ……おはよう」
心臓がうるさく鳴っていた。蓮を見ていると、顔に熱が集まってくる。
おかしい。こんなこと絶対におかしい。
たかがキスシーンの撮影で、俺がこんなに動揺するなんて。
キスシーンは初めてではない。今までは平然とこなしてきた。なんなら付き合っていた子とするときでさえ、こんなに心臓がはねた記憶がない。
なら今のこの状況は、どういうことなんだろう。
「秋さん、俺……絶対にいつも以上にドキドキするから。心臓の音聞こえても笑わないでね」
そうお願いしてくる蓮は、手の甲で顔を隠していても隠しきれず、すでに赤面しているのが分かる。
蓮が顔を隠しているおかげで俺の顔を見られずに済んだ、とホッとした。
「……笑わねぇよ」
そう返してから、ちょっとトイレとその場を離れた。
気持ちを立て直さないと、撮影なんて無理だ。
一度車に戻ってシートに体をうずめた。
両手で顔をおおって、深く息を吐き出す。
この跳ねる鼓動は、なぜなのか。
蓮の顔を直視できないのは、なぜなのか。
考えれば考えるほど、胸の鼓動が高まっていく。
こんなに大切な撮影の日に……。本当に情けなくて、いやになる。
駄目だ。これ以上考えるな。なぜ自分が今こうなっているのか、今は考えない。
撮影には響かせない。
蓮の足は絶対に引っ張らない。
必死に自分に言い聞かせた。
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