『ありがとう』『さようなら』

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『ありがとう』『さようなら』

 たった五文字が言えなかった。何も言えなかった。最後の最後まで。  全く、僕は本当にどうしようもなく、救いようのない奴だと思う。  だって、この世に留まれる最期の夜の、最後の()(まま)がこうして街に自分の残り香を探しに来ることを選んだのだ。誰に気持ちを伝える訳でもなく、誰かに会うわけでもない。結局、自分が可愛いだけなのかもしれないな。  そんな自分に呆れながら、日の落ちる街角でドクターペッパーを喉に注いでいく。何とも言えない弱い炭酸の喉越しは最悪だ。甘ったるいこの味もあまり好きではない。なのに、どうしても飲んでしまう。  そう言えば、これも彼女の影響だったっけ。  今の僕の半分以上は、彼女が溶け込んでいる。  こうやって、少しばかりの考え事があれば、近くの自販機に足を運んで百三十円のドクターペッパーを買って、家まで待てずに帰り道で飲む、なんて言うことがしばしば。  他にも、こうして感傷に浸りながら、()えて暗がりを進んでいくのもそうだろう。それこそ青白い街灯に照らされる事も嫌うほど。ただ、その理由は僕も分からないが。  とにかく冷たい夜風が頬を(かす)り行き、外灯下でそっと吐いた息は白く立ち昇る。こんな日くらい、やっぱりホットレモンでも買っておくべきだったか。いや、いっその事、酒でも飲んでおくべきだったか。(かじか)んだ手を見つめてそう思う。  今夜はまだ長い。  (さざなみ)の音が響き渡るこの街を歩いて行く。色んなところを回って行くんだ。そう言って缶をゴミ箱に投げ入れ、色んなものを横目に見ながら進んで行く。誰もいない夜霞(よがすみ)に包まれた世界を裸足のまま、足早に駆け抜け始めた。  前も見えぬ霧を掻き分け、前と信じた方向へと向かっていく。  そして、視界が開け、一番最初に見えたのはあの公園だった。  今見ればとても小さい滑り台、こっそり逆上がりの練習をした鉄棒。なんて懐かしいものだろう。蘇る記憶に、つい頬が緩んでしまった。  今度は反対側の出入り口へと向かう。その間も、只管(ひたすら)な懐かしさに浸っていた。  彼女と一緒に座ったベンチ、陽炎に見舞われた帰りに通った裏道、勇気を振り絞って告白した茂み裏。  そこまで見たところで、ふと脳裏に鮮明な映像が過った。  ––––これって、彼女との……。   そ、その、僕と、つ、付き合って下さい。 「えっ……」 お願いしますっ。 「あ、うん……えっと、こちらこそよろしく」 え? 「だ、だから、わ、私も、す、好きです」 あ、うん……。よ、よろしく。  ……あの日の記憶。気恥ずかしくも、嬉しかった瞬間。  あー、もう。懐かしくて、懐かしくて、懐かしくて仕方がない。  でも、それは僕の求めているものではなかった。  だから、なんて言うのは変だろうが、ほんの少しでも感じたこの幸せを、ポケットに入っている二枚のチケットと一緒に、出口横にあるゴミ箱に投げ入れた。  これ以上の感傷は、未練にも繋がりかねない。そう心に言い聞かせ、奥歯を食いしばる。そして、振り向くこともなく、次なる場所へと歩み始めた。
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