2人が本棚に入れています
本棚に追加
雨はいつか止む
彼女は僕に包丁が刺さっているのにも気がつかないまま、ただただ僕に抱きついていた。時折聴こえる嗚咽、鼻の啜る音、彼女がどれだけ想ってくれていたかを改めて知った。
そして、深呼吸をすると僕の耳元で密かに囁く。
「バカ」
こんな深夜に、こんなところまで探しに来るとは、本当にどこまでもお人好しだとこで。いや、むしろただのお人好しだったらどれだけ気の楽なことか。
あぁ、なんでこうするしかなかったのだろう。自分の決死の行動にさえ、後悔は残る。
しみったれた夜更け過ぎの風は冷たく頬を掠り、行き先も分からぬままに吹き抜けて行った。
ポツ、ポツ、ポツポツポツ、ザァー。
こんな陽気な春の日の夜に俄雨なんて、最期の最後まで付いていないな。
乾いた雨粒に打たれ、服も、髪も、心までも濡れる。それが、少し火照る身体には丁度良かった。
水が地に落ちる音、変わらぬ街の鼓動、轟く雷鳴、遠のいて行く意識に埋もれる振動は鎮魂歌だ。
水溜りに出来る泡沫、何度も瞬く壊れかけの電灯、流れ行く光に伸びる影、目に焼き付いた風景は走馬灯に違いない。
廻り行く記憶の嫌悪感も合い混じって、もう最低な気分だ。
でも、これ以上の苦しさを味わわなくて済むのだと、痛み以上の辛さを味わわなくて済むと考えると、妥協点には相応しい、なんて開き直れる。
「ごめん、な……」
残す一声はこんなものだろう。多分、最善の回答では無いのだろうが。
「え? ……コレ、って」
きっと僕の言葉と、地面に滲む血を見てようやく気付いたんだろう。既に手遅れである事を。彼女がやって来た目的が既に無くなってしまった事を。
途端、背中に回された手に力が入り、服を握られた圧迫感が鈍くなっていく脳の奥まで突き刺さった。
すると、僕を抱き締める身体は小刻みに揺れ始める。
「ねぇ」
震えた声、及び腰な口調、最期くらいは笑顔で送ってはくれないだろうか、なんて僕は思う。
でも、彼女は続けて言葉を絞り出していった。
「私は君が好き。だから、逝かないで欲しい」
立ち尽くす冷気が言葉に染み付いて、外に出される度に凍り付き、鋭い刃のように突き刺さってくる。
「でも、君はもう嫌なんだよね」
空が一層暗くなると、打ち付けてくる雨は無慈悲にも勢いを増し始めた。
「これって、あいつらのせい、なんだよね」
水に霞む視界も夢に映る風景も見分けが付かなくなっても、彼女の声ははっきりと聞こえる。
「じゃあ、君は……お前は、あいつらのために死ぬつもり?」
その一言は、しっかりと僕の心臓を捉え、その中心を貫いた。
怒号にも似た声は僕の上を流れて行く時間さえも遅らせてしまう。気付けば雨粒の落ちる音さえ聞こえなくなり、光の粒子が霞んだ視界を広げる。
途端、触れ合っていた彼女の温度は離れ、僕の目の前に彼女の顔が現れた。
「お前はさ、あいつらのために死にたいの? どうなの?」
殴打していく言葉の数々、それは背中の痛みさえ消してしまう程に痛かった。
「僕は……」
「はっきり言って」
最後の一言は、渾身の一撃とも成り代わって、僕の弱さを打ちめかし、露わにしてしまう。それに漬け込むように、奥の方から赤い点滅する光がやって来るのが見えてしまった。
用意周到だな。本当に、恐れ入るよ。
「もう、いい加減にして。私には全然分からない。いじめがどれだけ酷いものかも、それをされてどんな気分になるかも分かんないんだよ」
吹き荒れる風に鳴り止まない雷鳴、収まりを見せない雨が描くのは、美しい絵ではない。
「でもさ、いつまで逃げてるの? いつまで塞ぎ込んでるの?」
最低最悪の落書きに他ならなかった。
「ほら、どうしたいか言ってよ」
その後、小さく「早く」なんて声が聴こえなければ、何も言えなかったのだろう。
滲む視界、詰まる嗚咽、傾く心、そんなものが全て僕に向かって、悪魔の囁きを告げて来る。
「僕は……僕は、死にたくなんてない」
「うん」
言い足りない言葉は段々と勢いが増し、溢れ出す。破裂しそうな命の袋から弱さが漏れ出し始めた。
「死にたくない。死にたくないよ。死にたくない、けど、もう嫌なんだよ、もう辛いんだよ」
あぁ、止まらない。
「僕だって、君が好きだ。めっちゃタイプだよ。付き合えるんだった付き合いたい」
誰か止めてくれないか。
「でも、それも怖かった。僕のせいで他の人が巻き添いになるのも嫌なんだよ」
でも、もういいや。
「もう全部が怖くて、嫌で、辛くて、苦しいんだよ」
雨とは本質的に違う涙は目から溢れ出し、息は短くしゃくり上がった。
これは過去で一番泣きじゃくっているみたいだ。全く、雨がどうにかこの酷い顔をどうにかしてくれているだろうか。
最初のコメントを投稿しよう!