雨はいつか止む

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雨はいつか止む

 彼女は僕に包丁が刺さっているのにも気がつかないまま、ただただ僕に抱きついていた。時折聴こえる嗚咽(おえつ)、鼻の(すす)る音、彼女がどれだけ想ってくれていたかを改めて知った。  そして、深呼吸をすると僕の耳元で密かに囁く。 「バカ」  こんな深夜に、こんなところまで探しに来るとは、本当にどこまでもお人好(ひとよ)しだとこで。いや、むしろただのお人好しだったらどれだけ気の楽なことか。  あぁ、なんでこうするしかなかったのだろう。自分の決死の行動にさえ、後悔は残る。  しみったれた夜更け過ぎの風は冷たく頬を掠り、行き先も分からぬままに吹き抜けて行った。  ポツ、ポツ、ポツポツポツ、ザァー。  こんな陽気な春の日の夜に俄雨(にわかあめ)なんて、最期の最後まで付いていないな。  乾いた雨粒に打たれ、服も、髪も、心までも濡れる。それが、少し火照る身体には丁度良かった。  水が地に落ちる音、変わらぬ街の鼓動、轟く雷鳴、遠のいて行く意識に埋もれる振動は鎮魂歌(ちんこんか)だ。  水溜りに出来る泡沫(うたかた)、何度も瞬く壊れかけの電灯、流れ行く光に伸びる影、目に焼き付いた風景は走馬灯に違いない。  廻り行く記憶の嫌悪感も合い混じって、もう最低な気分だ。  でも、これ以上の苦しさを味わわなくて済むのだと、痛み以上の辛さを味わわなくて済むと考えると、妥協点には相応しい、なんて開き直れる。 「ごめん、な……」  残す一声はこんなものだろう。多分、最善の回答では無いのだろうが。 「え? ……コレ、って」  きっと僕の言葉と、地面に滲む血を見てようやく気付いたんだろう。既に手遅れである事を。彼女がやって来た目的が既に無くなってしまった事を。  途端、背中に回された手に力が入り、服を握られた圧迫感が鈍くなっていく脳の奥まで突き刺さった。  すると、僕を抱き締める身体は小刻みに揺れ始める。 「ねぇ」  震えた声、及び腰な口調、最期くらいは笑顔で送ってはくれないだろうか、なんて僕は思う。  でも、彼女は続けて言葉を絞り出していった。 「私は君が好き。だから、逝かないで欲しい」  立ち尽くす冷気が言葉に染み付いて、外に出される度に凍り付き、鋭い刃のように突き刺さってくる。 「でも、君はもう嫌なんだよね」  空が一層暗くなると、打ち付けてくる雨は無慈悲にも勢いを増し始めた。 「これって、あいつらのせい、なんだよね」  水に(かす)む視界も夢に映る風景も見分けが付かなくなっても、彼女の声ははっきりと聞こえる。 「じゃあ、君は……お前は、あいつらのために死ぬつもり?」  その一言は、しっかりと僕の心臓を捉え、その中心を貫いた。  怒号にも似た声は僕の上を流れて行く時間さえも遅らせてしまう。気付けば雨粒の落ちる音さえ聞こえなくなり、光の粒子が霞んだ視界を広げる。  途端、触れ合っていた彼女の温度は離れ、僕の目の前に彼女の顔が現れた。 「お前はさ、あいつらのために死にたいの? どうなの?」  殴打していく言葉の数々、それは背中の痛みさえ消してしまう程に痛かった。 「僕は……」 「はっきり言って」  最後の一言は、渾身の一撃とも成り代わって、僕の弱さを打ちめかし、(あら)わにしてしまう。それに漬け込むように、奥の方から赤い点滅する光がやって来るのが見えてしまった。  用意周到だな。本当に、恐れ入るよ。 「もう、いい加減にして。私には全然分からない。がどれだけ酷いものかも、それをされてどんな気分になるかも分かんないんだよ」  吹き荒れる風に鳴り止まない雷鳴、収まりを見せない雨が描くのは、美しい絵ではない。 「でもさ、いつまで逃げてるの? いつまで塞ぎ込んでるの?」  最低最悪の落書きに他ならなかった。 「ほら、どうしたいか言ってよ」  その後、小さく「早く」なんて声が聴こえなければ、何も言えなかったのだろう。  滲む視界、詰まる嗚咽、傾く心、そんなものが全て僕に向かって、悪魔の(ささや)きを告げて来る。 「僕は……僕は、死にたくなんてない」 「うん」  言い足りない言葉は段々と勢いが増し、溢れ出す。破裂しそうな命の袋から弱さが漏れ出し始めた。 「死にたくない。死にたくないよ。死にたくない、けど、もう嫌なんだよ、もう辛いんだよ」  あぁ、止まらない。 「僕だって、君が好きだ。めっちゃタイプだよ。付き合えるんだった付き合いたい」  誰か止めてくれないか。 「でも、それも怖かった。僕のせいで他の人が巻き添いになるのも嫌なんだよ」  でも、もういいや。 「もう全部が怖くて、嫌で、辛くて、苦しいんだよ」  雨とは本質的に違う涙は目から溢れ出し、息は短くしゃくり上がった。  これは過去で一番泣きじゃくっているみたいだ。全く、雨がどうにかこの酷い顔をどうにかしてくれているだろうか。
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