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濡れて、溢れて
あの日からしばらくの間、二階の専門書の本棚の前で、男女がキスをしていたと言う話題で持ちきりだった。幸い、例の勉強のできる大学二年生の彼も私も、顔を見られていなかった事に救われた。ただ、その話題が上がるたび、適当に話を合わせては、顔が引きつりそうになるのを必死で堪えているしかなかった。
それでも、他人の関心はそう長くは続かないもので、そんな小さな出来事は、日が経つと共に薄れていった。
今では、誰も話題にしなくなった。
──やっと彼に会える。
不謹慎にも、そんな事を思ってしまった。思ってから、誰にも気付かれないように、こっそりと胸を弾ませる。
年々温暖化だと言われているけれど、それでも季節は間違いなく秋に向かっている。夏に比べれば、ほんの一瞬で終わってしまう季節だけれど、短いからこそ、その時間を大切に楽しむ事ができるのかもしれない。
単純に、紅葉の季節が私は好きだ。
立秋から二ヶ月も過ぎたと言うのに、涼しくなるどころか二ヶ月前と大差ない日もあり、図書館の冷房の温度はまだまだ上がりそうになかった。
ようやく例の場所へと再び足を運ぶ事ができるようになったのは、夏物のカーディガンから、やや分厚めのそれに切り替えた次の日だった。
少しでも例の話題が残っていたうちは、仕事以外であの場所へ行く事ができなかった。また、誰かに見られてしまうのではないかと言う恐れの方が、例の勉強のできる大学二年生の彼に会いたいと言う気持ちよりも勝ってしまっていたからだ。だから、もしも今日彼に会えるとすれば、一体いつぶりになるのだろう。
ずっと例の場所へ行けなかった理由を、もちろん彼は知らない。だから、彼が今、私の事をどう思っているのかが気がかりで仕方なかった。
それでもつい、都合のいいように考えてしまう。彼は私の気持ちを酌んでくれていて、顔を合わせるなり、いつものように優しく微笑んでくれる。
勝手な妄想だ。でも、それだけでいい。それだけで、十分だ。
午後六時を回った頃、例えようのない不安に押し潰されそうになる。落ち着かない足取りで、館内を意味なく歩いて回る。一応は、返却された数冊を手に取ったけれど、ものの数分もあれば全て元の場所に戻せるだろう。
受付の裏にある階段を通り過ぎると、吹き抜けの一階部分に出る。そこは、二階と同様の造りになっており、壁一面が本棚になっている。その真ん中には、背もたれのない四角い椅子が数脚置かれている。それらの色合いと雰囲気の良さが、 この空間にはとても似合っていた。そこから奥へと進み、手元の一冊を本棚の一番上に戻そうと、背伸びをして手を伸ばす。そうしなければ、そこに届かない自分に小さなため息が出た。
次の一冊に目を向け、それの場所へと移動する。
窓のない廊下を進み、日本の歴史のあれこれが並んでいる場所に着くと、とりあえずは顔だけを動かして探した。
ここでもまた、一番上の棚だった。
ぴくりと眉が動く。
廊下を戻り、今度は二階へと上がって行く。
三度目の正直とは、こんな事にも使ったりするのだろうか。ハードカバーの背表紙を撫でながら、手元と本棚を目だけで行ったり来たりさせる。
背伸びをし、本と本を左右に割って半ば強引に隙間を作ると、さらに強引にハードカバーのそれをそこへ押し込んだ。
踏ん張っていないと、こちらが後ろに倒れてしまいそうだった。
いつもなら、どんな人が借りたのだろうと想像をするけれど、今回は、揃いも揃って一番上の棚に手を伸ばした人たちが、想像ではなく、実際にどんな人たちなのか気になった。
手元には、最後の一冊。意識的に残してしまったそれは、二階の奥、専門書の近くの物だった。
窓の外は、ほとんど真っ暗になっていた。だからではないけれど、まるで例の場所へ向かっているかのような錯覚に陥る。
近付くにつれ、手の中のそれを強く握りしめていた。
彼がいるかどうかは、全く検討もつかないけれど、それでも、できる事なら会いたいと思った。
流行る気持ちはもちろんあるけれど、一歩一歩が慎重になっていた。
そしてその場所を、ゆっくりと覗いた。
彼は、いなかった。
あからさまなため息が出るけれど、仕方がないと自分に言い聞かせる。通り過ぎて一つ隣の本棚へ行き、最後の一冊を元の場所に戻した。
最後のそれの場所は、今の私の気持ちを表すかのように、一番下の、一番端にあった。こんなにも目立たない場所にある本を手に取ろうとした誰かは、相当な勉強好きか、もしくはただの物好きか。
膝に両手を乗せて一気に立ち上がると、軽いめまいに襲われた。
頭の後ろの方が痺れる感覚と、目の前が真っ暗になるのがほとんど同時だった。
いつもの立ちくらみだろうと、壁に片手を付き、自然と治まるのを待った。
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