触れる

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 金曜日の午後六時を少し回った頃、決まって私の胸は騒がしくなる。  ──ああ、もうすぐだ……  何度も腕時計を気にしながら、騒がしい胸を隠すように自然と前屈みになっていた。  二階の奥、誰もいない専門書の通路へ行き、窓ガラスに映る自分を見つめて頬に手を添えた。  ──熱い。  次第に、ガラスに映る自分を見つめているのか、窓の外を眺めているのか分からなくなってくる。  七月に入ってすぐ、待っていたかのように梅雨に入った。毎日図書館の中にいる私にとってはさほど支障はないけれど、それでも、どんよりとした雰囲気は防音のガラス越しでも伝わってくる。  しばらくの間その場でぼんやりとそうしてから、返却された本の入ったワゴンを再び動かし始めた。  私の働く図書館は、五百万冊の蔵書を所蔵する立派な図書館で、広さもさる事ながら、建築がとても素晴らしい。ヨーロッパの古城の天井を模したようなエントランスに、建物の中心にある吹き抜けの二階部分は、壁に沿って一面が本で埋まっている。廊下に窓はなく、壁に取り付けられたオレンジ色の電球には、レトロなカバーが被せられたものが等間隔に並んでいる。そのひとつひとつの灯りは小さいけれど、雰囲気だけで言えば完璧だ。それから、全ての床には絨毯が敷き詰められているので、ワゴンを動かす音も多少は軽減されているはずだ。何より、身長が百五十センチにも満たない私にはかなりありがたかった。なぜなら、ヒールの高いパンプスを履かなければ、本棚の上段には手が届かないからだ。全ての場所に踏み台や梯子が設置されていない事に苦労はあるけれど、それも今では慣れ、当たり前になっていた。この絨毯のおかげで、ヒールの厭らしい音が吸収される分には助かっている。ただ、おかげで毎日足は棒のようだ。  それぞれの大きさの本を丁寧に扱いながら、元の位置へと戻していくこの作業は、一見地味に見えるけれど、私は好きだった。  どこの誰だか分からないけれど、それぞれの趣味が見えるのが面白かったりするからだ。あまり興味のないジャンルのものが多い日は新鮮だったりするし、反対に、自分の好きの作家が借りられていたりすると、なんだか嬉しくなる。  それらの本を全てを戻し終え、再び腕時計に目を向ける。  閉館時間まで、あと一時間。  館内いる利用客も、昼間に比べるとぐっと減り、すれ違う客層もがらりと変わってくる。主婦から学生、お年寄りからサラリーマン、と言った感じだ。  日中ももちろん静かなのだけれど、夜が近付くこの時間の静けさとは、なんだか、どこかが違う気がする。  空になったワゴンを所定の場所に戻し、少しづつ閉館作業に移行していく。その間も、意識は館内にいるはずの彼に向いていた。  その彼を初めて見かけたのは、確か去年の七月の終わり頃だった。八月に入ると、ほとんど毎日見かけるようになった。  始めは、夏休みに課題やなんかをわざわざ図書館へ来てやっている学生なのだろうと思っていた。特別視する事もなく、一利用客にすぎなかった。  九月に入り、彼の姿をぱったりと見なくなった。だから、学校が始まったのだろうと、いつものように勝手な想像で解釈をしていた。  図書館の利用客とはほとんど言葉を交わさない代わりに、この人はこう言う人なのだろうとか、あの人はきっとこんな人だ、などと人間観察をしては想像する事が癖になってしまっていた。だから、私の想像の中の彼は、勉強のできる大学二年生、ちなみにコンプレックスは、童顔な事だ。もちろんそれも、想像に過ぎない。  それから勉強のできる大学二年生の彼が再び現れたのは、図書館の横にある背の低い紅葉が、少しばかり色付き始めた頃だった。  昼休み、厚手とは言え、カーディガンだけで外に出た事を後悔したのを覚えている。  丁度、閉館時間の一時間前だった。  受付の方へと戻る最中、館内に入ってくる彼を偶然見かけた。勉強のできる大学二年生の彼だと、咄嗟にそう思った。同時に、頬が緩むのをさっと手で隠した。彼の姿を見たからそうなってしまったのと、変なあだ名を付けた自分が可笑しくなったからだ。さらには、急に来なくなった一利用客の顔を覚えていた自分に驚いた。  勉強のできる大学二年生の彼を目で追うようになったのは、確かそれがきっかけだったと思う。  それから彼は、決まった曜日の同じ時間に図書館に来るようになった。始めこそ、アルバイトのない日に来ているのだろう、くらいにしか思わなかったけれど、次第に、彼に対する見方が変わっていった。想像ではなく、実際に彼の事が知りたくなってしまったのだ。  ──いけない……  なぜなら、こんな私でも恋人がいるからだ。優しくて、頼りがいのある年上の恋人。  それなのに、金曜日がくるたびに胸を高鳴らせ、勉強のできる大学二年生の彼を、見ているだけでは足りなくなっていった。勇気を出し、彼の横を通り過ぎてみたり、彼が図書館を出て行くその後ろ姿を、誰にも気付かれないようこっそりと見送ったりもした。彼が帰ってしまうと、また一週間会えない事に肩を落とし、勘違いしそうになっては、深入りしてはだめだと自分に言い聞かせる。そんな馬鹿げたことを、いつの間にか繰り返すようになっていた。
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