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1、お終いへの採用試験[序]
最後の最後の、二人の別れの時は、
ありえません、という否定ではなく、
その通りです、という肯定から始まるだろう。
これは、その時が来るまでの物語。
「……――僕が自分の〈力〉を自覚したのはいつだったか、ハッキリとは覚えていないんだ。言語の習得や歩行の開始を覚えていないのと同様だね。それくらい、僕にとっては自然にできるようになっていたことなんだ」
わたしは素朴に、どんな風にわかるんですか? と訊いた。すると宗像さんは、ソファに背をもたせ、困ったな、という風に腕を組んだ。
「それを説明するのはとても難しくてね。例えば僕たちは色を認識し、識別することができる。でも、目が見えない人に『赤というのはどういう色なんですか?』と訊かれても、説明の言葉を持たない。僕たちは『赤』とは何色かわかっているはずなのに、だ」
その仮定を考えてみる。確かにそれは、困難というよりも不可能事に思えた。なるほど、無茶な質問をしてしまったらしい。
しかしわたしは、懲りずに質問を続ける。
この世界が、〈力〉を持った宗像さんにはどう見えますか? と。やはり宗像さんは困り顔で言った。
「何とも言えないかな。この〈力〉によって、世界の見方が他の人とどう違っているか、僕にはわからない。僕は僕の見方でしか、世界を見ることができないからね。
誰かの気持ちを慮ることはできる。しかし同じ世界を見ることは決してできない。肉親であれ、配偶者であれ、恋人であれ、親友であれ、相棒であれ、ね。僕が真名君の見ている世界がわからないのと同様だよ。
『配られたカードで勝負するしかないのさ』」
「『それがどういう意味であれ』、ですか?」
世界一有名な犬の言葉だ。わたしのこの返しに、宗像さんは静かに微笑した。
「……ただ、この〈力〉があったから、名探偵に焦がれたというのはあったろうね。
真名君は青春真っ盛りだから、色々と妄想に耽ることがあるだろう? ……いやいや、別に疚しい意味の妄想じゃなくて、微笑ましいやつだよ。そんな、『セクハラですか?』みたいな目で見つめられると照れてしまう。
ほら、『テロリストが教室に乱入してきたら自分一人で殲滅してやるぞ!』とか『本屋で偶々同じ本を取ろうとした相手が、憧れのアイドルだったらどうしよう!』とか、『異世界に召喚されて勇者扱いされてみたいな!』とか、そんな類のものさ。
『事件に出くわしたら、この〈力〉を使って僕が快刀乱麻に解決するんだ!』
若かりし頃の、というより未熟だった頃の僕の妄想のメインはこれだった。そして自分の物語に相応しい鮮烈な始まりを、事件を、僕は心の底から望んでいた。
……けれど、実際にそれが起こった時、僕の頭はアッサリと真っ白になった。
『父さん?』
と、隣に立つ夕貴が、ポツリと呟いた。信じられないという風に、疑問形で。
当然さ。友達を連れて家に帰ったら、父親がリビングの真ん中で頭から血を流して倒れていたんだから。現実と思えなくても無理はない。
十五歳当時の僕も、彼女と同様、その光景に現実感を喪失していた。現実から逃避した、と言ってもいい。こんな風な、馬鹿げた考えしか浮かんでこなかった。
(こういう時、どうするのが正解だったろうか。そう、少なくとも警察を呼んではいけないんだった。なぜなら、倒れているあの人が死んでいるかの確認をしていないのだから。ここで『早く警察を!』なんて言えるのは、死を確信している犯人だけだ。下手に指示など飛ばしたら、僕が犯人になってしまう。名探偵になるはずのこの僕が)
……僕よりも、夕貴の方が現実に戻るのは早かった。『父さん!』と叫びながら父親に駆け寄ると、震える手でその体を強く揺さぶった。
『下手に動かさない方がいい。血は頭から流れているからね』
冷静にそう言ったのは僕じゃない。最初から現実の世界にしかいなかった人物が、その場にはいたんだ。それが、先の答え合わせの際に話した、元相棒さ。当時はまだ、正式に組んでいたというわけではないけどね。
『九郎、救急と警察を。夕貴は清潔なタオルか何か頼む。助けが来るまで応急処置を試みる』
その言葉に、僕は慌ててポケットから携帯電話を取り出した。今ではすっかり見かけない、折りたたみ式のそれを開いて、親指で番号を追いかけた。
(119、119、……あれ、199だったっけ? それとも911だったか?)
頭はまだ混乱していた。
歯の根が合わなかった。
手は震えていた。
まさかこんなにも、自分が脆い人間だとは思っていなかった。
その時ね、被害者の傷を見ていた元相棒が駆け寄ってきて、僕の頭に思い切りチョップをしたんだ。グーでないところに優しさがあったし、パーでないところに厳しさがあった。
『落ち着け、救急は119、警察は110だ。まったく呆れるな。名探偵志望の男が狼狽しすぎだぞ、馬鹿者』
皮肉たっぷりだった。いつもの彼女だった。それを見て、僕の頭はようやく再起動した。
(そうだ、僕は名探偵になる人間なんだ。これはそのスタートなんだ。僕の物語は、ここから始まるんだ)
僕は携帯電話を握り直し、ボタンをプッシュした。
そして……その後の展開は、もう真名君も知っての通りだよ」
ここまで話すと、宗像さんはゆっくりと天井を見上げた。その見つめる先をわたしも追いかけたが、何があるわけでもなかった。初めて訪問した時も、二回目に押し掛けた時も、採用試験の時も、この人がそうしていたことを思い出す。
恐らく、遠い日を追想する際の、この人の癖なのだろう。虚空の先に、過去の時間があるかのような、遠い眼差し。
しばらく間を空けて、わたしから口を開いた。
「それが宗像さんの始まり、ですか?」
宗像さんは顔をこちらに向け直して、言葉を接いだ。
「うん。それまで妄想してきた通りの始まりではなかったにしても、ね。
どこの世界に、震えながら救急と警察に連絡を入れる名探偵がいるんだか。さらに付け加えると、僕は友人の父親が倒れているまさにその時、自分の名探偵としての始まりを夢想していたというんだから、これはもう何の弁解のしようもない黒歴史さ。いまだに、夕貴と顔を合わせるとバツが悪いものを感じるよ」
そう言って、宗像さんは恥ずかし気に耳の後ろを掻いた。
他者の悲劇が、自分の未来を確定する予兆に見えたこと。
それに対して顔を赤らめることができるこの人は、多分、いい人なのだろう。
黒ずくめの探偵、宗像九郎。
わたし、真名ひいらぎの始まりは、この人との出会いから。
これはわたしの、『お終い』へ向けての、始まりのお話。
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