[二]

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 [二]

 目の前を人が歩いている。  すれ違い、通り過ぎていく。  意味をなさない喧騒の中を、分け入るように進む。  彼らからしたら、自分は何でもない存在なのだろう。自分にとって、彼らが何でもない存在であるのと同様に。  何でもない、わたし。  世の中は「我思う、故に我あり」と豪語できる強者ばかりではない。少なくとも、その意味では、わたしは圧倒的に弱者だった。 『わたしの人生を見てほしい』 『自分の物語に〝お終い〟の文字を入れてほしい』 『到達点へ、極地へ、クライマックスへ、わたしを辿りつかせてほしい』  そんな心の底に押しやっていた思いが、無関係の他者を見ると刺激される。  自分の物語にエンドマークを付けるのは、自分ではない。しかし『ではない』のならば、一体誰が、いつ、わたしを導いてくれるのか。  物心ついた時、わたしはいつも『お終い』を探し、望んでいた。  自分という物語の『お終い』を。  心に(おり)のように溜まっていくその願望を、わたしは誰しもが持つものだと思っていた。いや、わたしの度合いが少なからず逸脱しているのは自覚していたが、それでも、感覚の一つとして理解はしてもらえるものだと思っていた。  昨日、わかった。それは絶望的な勘違いだったのだ。  ここ数年、自分の願望と折り合いをつけて生きてきたはずだった。それが余計な真似をしたために見事に破綻した。  やはり、わたしは消えてしまうべきだったのだ。二年前か、あるいは昨日の晩にでも。  他者の波に酔いながら、そんなことを考えていた時である。  誘蛾灯につられた羽虫のように、それに吸い寄せられたのは。  場所はアーケードの半ばほど。  薄汚れたコンクリートの鼠色にそぐわない白色が、不自然なまでに煌めいているのが目に入った。  ――何だろう。  何の変哲もないコンクリート造りの二階建て。  その二階へ続く階段の、上り口の壁に張られた一枚の紙。まだ張られて間もないのであろう、埃に汚れることもなく白さを保ったA4サイズの用紙には、次のような印刷がなされていた。  ――――――――――――――――――――  探偵助手募集  出勤日:応相談  待遇:応相談  応募先:階段先の事務所        ※可愛い女子高生希望  ――――――――――――――――――――  探偵助手の求人案内、か。どうやらこの階段の先には探偵事務所があるらしい。  ため息を一つ吐き、張り紙と向き合うようにして壁に背を預ける。  ……だから、どうだと言うのだ。  探偵。わたしが求めた者。わたしが務めた役柄。しかしどちらの意味でも、もうすっかり手遅れだ。  こんなものがこんなタイミングで目に入ってしまう皮肉に、わたしは恨みがましく、張り紙をジッと見つめた。ジッと見つめて……その内容に、強い違和感を覚えた。  何だろう、この求人は。  住所も電話番号もメールアドレスもQRコードもない。それどころか、募集主の名前すら書いていない。人を呼ぶ気があるとはとても思えない内容だった。  そして特別妙な点が二つ。  一つは助手の部分に取り消し線が引かれていること。手書きではなくパソコンで。  もう一つは、「可愛い女子高生希望」という、この御時世、警察に通報されても文句が言えなそうな記載が、こちらは手書きで付け加えられている。募集主が印刷後に足したものなのか、通行人がいたずらで書いたものなのか。何にせよ、本気とも冗談とも判定することができなかった。  パソコンで『助手に取り消し線』、手書きで『可愛い女子高生』。  指先で、用紙に書かれた文字の上をソッとなぞる。  どういう意味だろう、これは……。 「――失礼、お嬢さん」  突然掛けられた声に、反射的に身を竦め、顔を向ける。  そこには、長身の男性が立っていた。  細身のブラックスーツ、黒のワイシャツ、黒無地のネクタイ、オールブラックの腕時計、ツヤのある黒の革靴……。文字通りの黒ずくめである。例外として、掛けているメガネのフレームだけが、玩具の宝石のように黄色く、ピカピカと照明の光を反射させていた。  奇妙な影法師に出会った錯覚に襲われ、わたしはその場で固まった。  そして影法師さんはなぜか、わたし以上に困惑しているようだった。 「君は……」  と呟き、一度合った目を逸らすと、頭を大きくブンと振り、腰をかがめてこちらの瞳をジッと覗き込んできた。  幾分冷静になったわたしは、改めて影法師の顔を確認する。  年齢は、二十代半ばほどだろう。涼し気な目元と、スッと通った鼻筋、服と対照的な白い肌が特徴的と言えば特徴的だったが、逆に言えば、顔に関してそれ以上特記すべきことはない。  どこかで会ったことがある人だろうか。いや、記憶にない。  しかし、知り合いでないというなら逆に、なぜこの人は、いるはずのない生き物を見たかのような顔をしているのだろう。  いったいどれほどの時間、見つめ合っていたろうか。  ふと影法師さんは曲げていた腰をスッと伸ばすと、柔和に微笑しながら言った。 「すまない、君が旧い友人に似ていてね。勝手に驚いていた。ええと、僕に何か用事かな?」  ……それは、こちらのセリフなのだが。  どうもこの人は、わたしの方に用があると思っているらしい。心当たりがまるでない。  わたしがクエッションマークで散らかった頭の中を整理していると、こちらの混乱を読み取ったのだろう、影法師さんは、ああ、と得心したように頷いて、わたしの後ろに伸びる階段を指差した。 「この上が僕の職場なんだ。外出から戻ってくると、女子高生が佇んでいたから、これ幸いと話しかけてみたのだけれど」 「あ」  そういうことか。自分がこの人の入口を封鎖していたらしい。それは声も掛けるだろう。てっきり女子高生狙いのナンパか、怪しい勧誘かと思ってしまった。心の中で頭を下げる。  ということは、この人が募集主である探偵、か。 「すみません。いえ、この張り紙について少し……」  興味があってと言うべきか、疑問があってと言うべきか、何も言わずに去るべきか。頭に浮かんだ選択肢のどれを取るべきか迷っていると、影法師さんがおどけるように両手を広げた。 「お、まさか、これの採用希望者かな?」  ――この時のわたしを、どう説明すればいいだろう。 〈運命の歯車に巻き込まれて〉? 〈内から湧き上がる衝動に駆られ〉? 〈フォルトゥーナの気紛れな一指により〉?  何でもいい。  わたしは反射的に「はい」と答えていたのだ。  この返答に、影法師さんは「えっ」と声を上げた。信じられないという顔つきで。冗談を本気に取られてしまった人のするリアクションだった。  つまり、お互いに行き当たりばったりだったと言える。  わたしも自分の返答に、内心相当驚いていたのだから。
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