[六]

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 [六]

 目を覚ます。いつもと変わらない、気だるい目覚めだった。  まだボンヤリとした意識の中、枕に顔を埋め、昨日の出来事を思い返す。  学校。ホームルーム。風雨。アーケード。人の群れ。喧騒。張り紙。取り消し線。可愛い女子高生希望。黒ずくめ。影法師。宗像九郎。紅茶。犯人がわかる。推理。可能性。その否定。探偵助手。探偵助手。……殺人者が、わかる。  フッと息を吐き、起き上がって伸びを一つ。  ……それが、何だったというのか。  一度眠って、目覚めてしまえば何でもない。当たり前が、日常が、また始まるのだ。  いや、厳密に言えば、一昨日から僅かに形を変えた日常か。  いずれにせよ、そこにあの影法師の姿はない。  枕元に置いた目覚まし時計に目を向ける。五時五十三分。いつもと変わらない時間だった。寝坊をするとか、いつもより早く目が覚めるといったイベントがあったら、わたしはあの場所を、あの人を特別だと思えただろうか。どうもそうした可愛げは、自分にはないようだ。六時にセットしてあるアラームを、これもいつも通りに解除する。  眼鏡を掛けてベッドから降り、壁際にズラリと並んだ背表紙の海へ向かう。  朝食まで約一時間。今日はそれまで、何を読んでいようか。  買ってから手を付けていない新刊のミステリー……読了後、また読み直そうと心に決めて棚に入れ直した翻訳小説……大判の猫の写真集……一気に読み通すのがもったいなくて、一篇読んでは棚に戻している幻想小説の短編集。  何を読み始めるかあれこれ思い悩むこの時間が、一番幸せだ。色々なことを忘れることができる時間。いつも通りの、日常の幸せ。  ふと目に入った、もう幾度も読んだ文庫本を手に取る。  どこか異国の絵本めいたタッチで、テーブルを囲む人々が描かれた表紙。なぜか、これを読み返さなければならない気がした。  アントニイ・バークリー『ジャンピング・ジェニイ』。 「行ってきます」  というわたしの声に、リビングから母の「はーい」という間延びした声が返ってきた。これもいつも通り。父はもう、仕事に行ったのか、まだ寝ているのか、書庫に籠っているのか。生活のリズムが不協和音めいた人なので、なかなか顔を合わせることがない。  玄関扉を押し開け、空を見上げる。  昨日の雨は夜半に止んだものの、その場に張りついているような鉛色の厚い雲がまだ空を覆っていた。予報では、午後からまた一雨あるらしい。まだ不快と言うほどでもないが、やや生ぬるい湿気が肌を撫でていく。  学校は、クラスは、まだ昨日のままだろう。  仕方がないにしても、ペアワークや班分けの時に不便だろうなとは思う。  まあ、アブれる子はいるだろうし、いなければ単独行動を取るよりほかない。どうであれ、自業自得だ。考えるほどに鈍くなる足を、無理やりに前に出して進む。  十五分後、いつも通り、わたしはアーケードに入った。  通勤、通学、あるいはアーケード内の店舗関係者など、昨日ほどではないにしろ人は多い。その流れに乗ってわたしも歩を進める。  十メートルほど進んだところで気づいた。  思わず立ち止まる。突然立ち止まったわたしを、ある者は不審そうに覗き込み、ある者は舌打ちをして去っていく。  そんなことは、どうでもいい。 『いつも通り、アーケードに入った』?  違う。  これは、いつも通りではない。  わたしはアーケードを避けていたはずだ。避けるつもりでいたはずだ。  自分を痛めつけよう、という意識がまだ続いているのか。  昨日に比べれば人は少ないから問題ない、なんて、そんな解釈が突然自分の中に起こったのか。  それとも……あの人に何かを感じた、とでもいうのか。  自分の心の奥底を探るが、探ったところで、無意識の行動の理由など簡単には見つからない。しかし理由はわからなくても、原因は明確だった。  『お終い』の始まり。  求めていたものが、あそこに?  目を閉じる。息を吸う。息を吐く。目を開ける。  意識的に、強く一歩を踏み出す。  そのまま駆けるような足取りで、わたしは昨日のあの場所へ向かった。アーケードのほぼ真ん中にあった、あの場所へ。  張り紙はまだ昨日のまま残っていた。昨日もそうしたように、指先で印字をソッとなぞる。  昨日のあれも、今日のこれも、夢ではない。  あとはあの人の言葉が、嘘でないことを願うだけ。  わたしは階段の一段目に足を掛けた。膝が震える理由を、言語化することはできなかった。
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