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迎えに来たよ、とアルファの男が笑う。
鳶色の瞳をやさしく撓めて。
迎えに来たよ、と『運命のつがい』が、大きな手を差し伸べてくる。
私は必死にその手にしがみついた。
ああ、私のアルファ。
このまま私を連れて逃げてくれ。
雄々しく整った男の顔が、近づいてきて…………。
「……せ、博士! は、か、せ!」
ピシャリ、と頬を叩かれて、私は驚いて飛び起きた。
目の前には、もっさりとした頭の助手が居る。頬がじんじんと痛い。
夢と現実がわからなくなって、私は『運命のつがい』を探して視線をうろつかせた。
「……あ、あれ?」
アルファが居ない。私の、アルファが。
「寝ぼけてんスか?」
いつもの淡々とした口調で、各務が問うてくる。今日もふてぶてしく不愛想な表情だ。
周囲を見渡すと、常夜灯がぼんやりと点る代り映えのしない室内が見えた。
なんだ、夢か。
途方もない脱力感に、私は打ちのめされてうつむいた。
運命のつがいの居る夢の中は、あんなにしあわせなのに。
現実の私には救いの手など伸ばされず、研究所に囚われたままで。
死ぬまでここで暮らさなければならないのだろうか、という暗澹たる予測が、重くのしかかってくる。
項垂れる私の髪が、上から無遠慮に掴まれた。
頭皮の引き攣れる感覚に顔をしかめてベッドサイドに立つ助手を睨み上げた。
「痛いよ」
「アンタがまだ夢の中に居るみたいなんで。さっさと起きてください。ここから出ますよ」
一本調子の素っ気ない口調で言われて、うっかり意味を捉え損ねた。
「……は?」
「センサーもカメラも切ってます。警備員は買収済みなんで、エントランスまで行ければこっちのモンです。ほら、立って。行きますよ」
「ちょ、い、痛いってば」
髪を手綱かなにかのようにぐいぐいと引っ張られて、私は悲鳴を上げながらベッドから降りた。
いまは一体何時だろうと時計を見ると、深夜の二時を回ったところだ。
いや、時間などこの際どうでもいい。
彼はいま、なんと言ったのだろう……。
私が呆けていると、各務がまた頬を叩いてきた。
今度は先ほどと違って、てのひらを触れさせるだけのやわらかなちからだった。
「愚図愚図してたら捕まりますよ。アンタ、逃げたいんスよね?」
「……に、逃げたい、けど……なんできみが……」
助手の行動が意味不明すぎて、現実味もなく問いかけた私へと。
各務がうんざりとしたように吐息して、前髪の向こうからじろりと私を見下ろしてきた。
「はぁ? アンタが言ったんだろ」
「え?」
「ここから出してくれたら、俺だけのオメガになるって」
……言った。
確かに、言ったけれど。
数日前にその話をしたときは、各務は毛の先ほども興味を示さなかったのに……。
「ほら、行きますよ」
伸びてきた男の手が、私の手首を掴んだ。
そのまま引っ張られて、足がまろぶように前に出る。
「で、でも……」
「なんスか」
「きみ……インポだって言ってたのに……」
各務が私をたすけに来てくれた、ということが俄かに信じられずに、混乱した私は至極どうでもいいことを言ってしまった。
すると、存外背の高い、けれど野暮ったい印象の助手が。
いつもは怠そうでやる気のない表情を、不意にくしゃりと崩して。
「は、ははっ」
と、珍しく声を上げて笑ったから。
鼻筋にしわを作って、弾けるように、笑ったから。
私は束の間、彼に目を奪われてしまった。
「信じたんスか、あんな適当な冗談を」
可笑しげに肩を揺すった各務が、私を覗き込み、前髪越しに瞳をやわらかく撓める。
「バリバリ元気だってこと、後で証明してあげますよ」
囁く声音が、耳に吹き込まれた。
膝が震えそうになった。
「ほら、走って」
手首を掴んだまま、各務が私を誘導する。
私が手をずらしておずおずとてのひら同士を重ねると、彼は迷いもなくぎゅっと握ってくれた。
アルファでも、運命のつがいでも、イケメンでもない、ただのベータの男に手を引かれて。
私は走った。
薄暗い研究所の廊下を、各務と二人で走った。
鼓動が乱れている。
繋いだ手と、頬が熱い。
これは、久しぶりに走ったことによる胸の高鳴りなんかじゃない。瞼の裏に、普段は不愛想な助手の笑ったときの顔が焼き付いている。
なんだこの感情は。
この、押し寄せてくる甘く苦しいような感情は。
夢の中の、運命のつがいに覚えたそれよりも、生々しく、体が火照るほどに熱い感情。
それは、隣を走るベータの男に、起因するもので。
ずっと研究一筋だった私には縁遠いはずのもので。
湧き起こるそれの正体を、分析した結果は、つまり。
つまり私は……。
恋に、落ちたのだ。
この、私の手を引いてくれている、ベータの男に。
年甲斐もなく、恋をしてしまったのだった。
??A Happy Ending??
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