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「いいひと、ねえ……」
「え? あの、なにかわたし失礼なこと言いました?」
「うーん。別に失礼ってワケじゃないんだ。ただ、女の子にいいひとねって言われると複雑な気持ちになるというかなんというか。僕個人の、言ってみりゃあトラウマみたいなもんでさ」
何かを思い出しているのか宙を見つめながら、いずなは深く頷いてみせる。
その横顔がなんだか急に年齢を感じさせて、少女はぱちぱちと目を瞬いた。
なんだか魔法にかけられたような気持ちだった。
なんとなく、胸の奥がもやもやとするような。
「あ、あの、なんかすみません」
恐縮してしまった少女の頭に馴れ馴れしくぽんと節だった手のひらを載せて、いずなはにっこりと笑ってみせた。こぼれるように覗いた八重歯が白く尖って少女の視線を奪う。
「君があやまることじゃない。でもまあ、いいひとついでに忠告するとしたら、あんまり男に軽々しくいいひとなんて言わない方がいいってことかな。男は狼なのーよ、って歌、聞いたことない?」
少女は数秒考えてから「いや、ないですけど」と答えた。
いずなは「あちゃ古すぎたかな」なんて真っ赤な舌をぺろりと出して宙を仰いだ。
「まあいいや。それじゃあ東京観光、楽しんでね! 何か困ったことがあったら、僕みたいな親切で女の子に弱い男を見つけることだね。君かわいいから、きっとみんな喜んで助けてくれるよ。それじゃあマドモアゼル、アデュ……」
かっこつけて颯爽と立ち去ろうとしたいずなは、次の瞬間思い切り首が絞まって「ぐえ」と鳴いた。
「待って下さい!」
「ぐええええ」
焦るいずなのパーカーのフードを手綱よろしくしっかりと握りしめ、女の子は大きな声で言った。
「だったら、あの! ちょっと付き合ってもらえませんか? わたし、さっそく困ってるんです!」
その一言に一瞬冷えたいずなの肝が、次の言葉でまた平温に戻った。
「話だけでも聞いて下さい。あの、わたし、お茶代くらい払いますから」
よかったばれてない、と思うと同時にいずなは締まり続けるパーカーの紐になんとか隙間を作って、酸素を大きく吸ってからこう答えた。
「わかった、わかったからお嬢さん、それ放して! 死んじゃうから僕、死んじゃう!」
「あっ」
言われてはじめて気づいたようにようやく手を放してくれた女の子の顔を涙の浮かんだ目でしっかりと見つめ、いずなは薄汚れた都会の空気を気の済むまで肺に満たして、それから腹をくくって彼女の誘いに乗ってみることにした。
篁いずなを殺すに刃物はいらぬ。篁いずなを誘い出すのは蛸壺でタコを捕るくらい簡単だ。退屈に飽き飽きしたいずなにほんの少し期待させるだけでいい。
これから何か面白いことがあるのかもしれないという、淡い期待を。
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