01・前夜

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01・前夜

   台所から母が大声をあげてくる。 「陽子、陽子、ちょっとあんたっ。明日の準備、ちゃんとしたっ?」  考えたくないのにまたその話題。  るっさいなあと舌打ちした。  マニキュアを塗るための下準備。表面を磨いてなだらかに。やすりで形を整えて。削れたものが粉となって指にまとわりついたところを、ふっと息で吹き飛ばす。  女たるもの指先まで気をつけなければ。いつ、誰に見られているのか分からないのだから。  なあんてことを思っていても、いまの格好なんかトレーナーにスウェットだ。毛玉がわんさかくっ付いた。  肩まである髪なんか、風呂あがりでろくに乾かさずにびしょ濡れだ。  髪は、しっかり乾いていない方が好き。量が多くて広がりやすいから。濡れていたほうが良いバランスに見えるから。でも最近はカットの塩梅で、重たい髪もだいぶまともになるけれど。  居間のソファにもたれてみれば、テレビの中にはひっぱりだこの人気女優。はらり、大きな()から涙をこぼし、憂い気に目を伏せながら囁く台詞は「行かないで」。  計算された美しい泣き方だ。  実際はこんな美しいわけがない。泣いたらマスカラが落ちまくりで涙は真っ黒で、鼻や口からも何やら出るわ出るわでみっともない。  なのに、何度もやってしまったことがある。  泣くなんてみっともないことを、誰かと別れてしまったあの時に。
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