530人が本棚に入れています
本棚に追加
台所からまた母の声。
「ねえ陽子。あんた明日、なにを着てくつもりでいるのさ」
「え? べつに。普通にスーツ着てくけど」
「せっかくなんだから着物にしなさい? ね? ちゃんと着付けしてあげるから。得意なんだからお母さん」
「ああそうなんだ。でもいらない」
「いらなくないから。やったげる。お見合いったらやっぱりほら、着物にしないとよね」
「着ないから。それはお母さんの時代の話でしょ」
「いまでも別にそうでしょう? 着物は三割増しに見えるんだから着てきなさい? 明日はほら、あれよあれ、成人式の時着たあの振袖いいんじゃない? そうしなさい?」
顔をしかめた。なぜにあの振袖を。
「やだよ、あんなの派手だし目立つでしょうが」
花だの鳥だのが散らばっている真っ赤っ赤な振袖だ。あの時は可愛いと思って着たけれど、今は無理だ。絶対に。
「そんなことないよお。可愛く見えるからあれは」
「あのさあ、あんなので街なかを歩いたら、注目浴びるに決まってるでしょうが恥ずかしい。仕事でも付き合いあったりで、知り合いが多いんだからね? あたしは。 いつどこで、誰が見てるか分かったもんじゃないんだからね? 見合いしたなんて、誰かに知られたりでもしたら」
本当に、たまったもんじゃない。
「あーもう、やだやだ。あー、ホント行くのめんどくっせー」
「なにあんたその言葉づかい!」
「本音が出ちゃっただけですが」
「だからってその言葉づかいはやめなさいっ! 明日はちゃんとしなさいよっ! お母さんが恥ずかしい思いするんだからっ!」
「育て方を疑われ?」
「うるさいよっ」
「ねえやっぱり行かなきゃだめ? 明日」
「今さらなに。お父さんが困っちゃうでしょうが」
「……あー」
「それよりも、向こうの人がたが楽しみにしてるってさ」
「ほんとにかい」
楽しみにしてるって?
ホラ吹いてるんじゃないのかこの母は。
「だからちゃんと、明日は頑張りなさいよ? 愛想よくしてればあんたは結構悪くないんだから」
「もう、ずーっとそれ言ってくるよねお母さん」
「言いますよそりゃあもう」
――にっこりしなさいよ愛想よく。
わざと大きく溜息し、ソファにごろんと横になる。
分かっているのだ。あらがっても逃げられないのは。
仕方ない。今回だけはいい娘を演じよう。
「へーい。分っかりましたあ。明日はちゃんとにっこり愛想よく致しますうー」
承諾しつつも悪態をついてやったら、ぶっきらぼうな声が降ってくる。
「へーい。じゃなくて、はい、だろう陽子」
身を起こして振り返る。
父がいつの間にか立っていた。スプリングコートを着た父が。
皺が多くなった顔。白髪もかなり増えてきた。
あと一年で、この人は定年退職をむかえてしまう。
「あ、帰ってたんですかお父さん。今日もお疲れさまでした」
母が父のもとに歩み寄り、黒い鞄を受け取った。おもむろに脱がれたスプリングコートもともに。
「ビール冷えてますよお父さん」
「ん」
うなずいた父がネクタイをゆるめていった。紺色の、たて縞模様のネクタイを。昔から、父の首元を飾っているネクタイだ。
それに触れるごつりとした手にも、たくさん皺が刻まれていて、少し寂しくなっていく。
最初のコメントを投稿しよう!