01・前夜

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 台所からまた母の声。 「ねえ陽子。あんた明日、なにを着てくつもりでいるのさ」 「え? べつに。普通にスーツ着てくけど」 「せっかくなんだから着物にしなさい? ね? ちゃんと着付けしてあげるから。得意なんだからお母さん」 「ああそうなんだ。でもいらない」 「いらなくないから。やったげる。お見合いったらやっぱりほら、着物にしないとよね」 「着ないから。それはお母さんの時代の話でしょ」 「いまでも別にそうでしょう? 着物は三割増しに見えるんだから着てきなさい? 明日はほら、あれよあれ、成人式の時着たあの振袖いいんじゃない? そうしなさい?」  顔をしかめた。なぜにあの振袖を。 「やだよ、あんなの派手だし目立つでしょうが」  花だの鳥だのが散らばっている真っ赤っ赤な振袖だ。あの時は可愛いと思って着たけれど、今は無理だ。絶対に。 「そんなことないよお。可愛く見えるからあれは」 「あのさあ、あんなので街なかを歩いたら、注目浴びるに決まってるでしょうが恥ずかしい。仕事でも付き合いあったりで、知り合いが多いんだからね? あたしは。 いつどこで、誰が見てるか分かったもんじゃないんだからね? 見合いしたなんて、誰かに知られたりでもしたら」  本当に、たまったもんじゃない。 「あーもう、やだやだ。あー、ホント行くのめんどくっせー」 「なにあんたその言葉づかい!」 「本音が出ちゃっただけですが」 「だからってその言葉づかいはやめなさいっ! 明日はちゃんとしなさいよっ! お母さんが恥ずかしい思いするんだからっ!」 「育て方を疑われ?」 「うるさいよっ」 「ねえやっぱり行かなきゃだめ? 明日」 「今さらなに。お父さんが困っちゃうでしょうが」 「……あー」 「それよりも、向こうの人がたが楽しみにしてるってさ」 「ほんとにかい」  楽しみにしてるって?  ホラ吹いてるんじゃないのかこの母は。 「だからちゃんと、明日は頑張りなさいよ? 愛想よくしてればあんたは結構悪くないんだから」 「もう、ずーっとそれ言ってくるよねお母さん」 「言いますよそりゃあもう」  ――にっこりしなさいよ愛想よく。  わざと大きく溜息し、ソファにごろんと横になる。  分かっているのだ。あらがっても逃げられないのは。  仕方ない。今回だけはいい娘を演じよう。 「へーい。分っかりましたあ。明日はちゃんとにっこり愛想よく致しますうー」  承諾しつつも悪態をついてやったら、ぶっきらぼうな声が降ってくる。 「へーい。じゃなくて、はい、だろう陽子」  身を起こして振り返る。  父がいつの間にか立っていた。スプリングコートを着た父が。  皺が多くなった顔。白髪もかなり増えてきた。  あと一年で、この人は定年退職をむかえてしまう。 「あ、帰ってたんですかお父さん。今日もお疲れさまでした」  母が父のもとに歩み寄り、黒い鞄を受け取った。おもむろに脱がれたスプリングコートもともに。 「ビール冷えてますよお父さん」 「ん」  うなずいた父がネクタイをゆるめていった。紺色の、たて縞模様のネクタイを。昔から、父の首元を飾っているネクタイだ。  それに触れるごつりとした手にも、たくさん皺が刻まれていて、少し寂しくなっていく。
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