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第6話『桃色天使降臨(後)』
「えっ!?レイナちゃん、もう帰っちゃうの?」
次の日の朝、レイナは亜矢の部屋へ訪れた。
玄関の前で、レイナは丁寧すぎるほどにお辞儀をしてから顔を上げた。
「はい。私はまだ見習いの天使なので、人間界に長くは居られないんです」
亜矢の心では、未だに昨日のレイナの質問に対する答えは出せないままだ。
何かモヤモヤした感情を残しつつ、亜矢にしては珍しく作り笑いをした。
その時、亜矢の後ろからグリアが姿を現した。
(グリアさん!?)
声には出さないが、レイナはグリアの姿を見ると少し顔を赤らめた。
だが、何故グリアが亜矢の部屋にいるのだろうか?
亜矢の部屋にグリアが勝手に上がりこむのはすでに日常になっている事だが、そんな事情も全く知らないレイナは小さなショックを受けた。
(やっぱり、亜矢さんとグリアさんって……)
レイナは沈んだ表情になる。
その時、グリアが亜矢の前に歩み出て、レイナの頭にポンッと軽く手を置いた。
「…………?」
レイナはゆっくりと顔を上げ、グリアを見上げる。
「あんたは、リョウみたいな天使になるなよ?」
そう言うグリアの瞳は、いつもの鋭いものではなく、どこか優しさを含んでいる。
グリアは、レイナをリョウと重ねて見ていた。
レイナが、兄であるリョウと同じ道を歩む事になれば――それは、過酷なものとなる。
リョウの苦しみと本当の心を彼なりに理解しているグリアだからこそ言える、レイナに対しての『忠告』なのだ。
レイナはグリアの言葉の意味が理解出来なかったが、瞳の奥深くの優しさを感じ取った。
だが、そんなグリアを見ていた亜矢の心が―――ズキンと痛んだ。
グリアが女の子に優しく触れるのも、あんな優しい瞳をするのも――初めて見た。
「あの、亜矢さん」
「え、なに!?」
「お兄ちゃんは、何でも一人で抱え込んで自分を追い詰めちゃう人だから…お兄ちゃんの事、よろしくお願いします」
「え、ええ…。でも、なんであたしに…?」
それには答えず、レイナはただニッコリと笑った。
亜矢から見て、レイナは兄想いで優しい子だと素直に思う。
でも………亜矢は、レイナに『作り笑い』しか返せない自分に気付いた。
そんな自分自身に嫌悪感を抱く。
レイナが帰り、グリアも自室に帰って行った後。
亜矢は自室の床に座り込んで、物思いに沈んでいた。
心配そうにしてコランが亜矢の側に寄るが、心ここにあらずという感じで亜矢は何の反応も返さない。
正面からコランが亜矢にギュっと抱きついた所で、ようやく気付いた。
「コランくん?」
亜矢が見下ろすと、コランは目を潤ませていた。
「やだ…!コランくん、なんで泣きそうな顔してるの!?」
一転して亜矢は驚き、慌てながらコランの顔を見返す。
「だって……、アヤが悲しそうにしてると、オレも悲しい……」
亜矢はそこで、ようやく今の自分に気付いた。
何を思い悩んでいるのだろう?こんなの、いつもの自分らしくない。
「ううん……大丈夫よ。ごめんね」
亜矢は、コランを優しく抱き返した。
そうして亜矢は、ようやく何かを決意して立ち上がった。
いつもは顔を合わせるのも腹立たしいのに、今はあえて、そこに行こうと思う。
『アイツ』の所に答えがあるのは確かだから。
顔を合わせて、いつもの口ゲンカをするだけでも構わない。
それで、いつもらしい自分に戻れるのならば。
この心の痛みが消えるのであれば。
亜矢は玄関を出ると、右隣にあるグリアの部屋のドアの前に立った。
すると、ノックもしていないのにドアがすぐに開いた。
グリアが、亜矢の気配に気付いてドアを開けたのだ。
相変わらず人の行動を見透かされているようで悔しいが、今は少し嬉しい気がする。
「よお。またクッキーでも作って来たのか?」
「そんなに毎日作れないわよ」
「なら、オレ様の『口移し』が欲しくなったか?クク…」
「バカ」
いつもらしい二人の会話。だが、どこか亜矢は控えめで勢いがない。
「死神………あたし…………」
少し間を開けて、亜矢が何かを言いかけたその時。
ドクン……!!
グリアは、何か大きな力を感じ取った。
それは、全身が震えるくらいの振動となって、グリアの中で響いた。
強大な力だ。自分と相反する異種の鼓動。
グリアの顔色が一変して険しくなった。
「え………?どうしたの?」
亜矢の問いかけすら、今のグリアには聞こえていない。
グリアは亜矢の身体を横にどけると、外に向かって走り出そうとした。
「待って、どこ行くの!?」
事態を飲み込めない亜矢はグリアを呼び止める。
「てめえはそこで待ってろ!!」
亜矢に構わずグリアは走り出そうとするが、亜矢がとっさにグリアの片腕を掴んだ。
その力強さに、グリアは思わず亜矢の方を振り返る。
「待って、待ってよ…!!もう少しなの……もう少しで答えが出そうなんだから!!」
それは、懇願にも似た叫び。
その瞳には、いつもの強気な亜矢らしくなく、いっぱいの涙が溢れている。
「亜矢?テメエ、何言って……」
「こんな時くらい、待ってよ……バカ……!バカぁっ………!!」
「………っ!!」
グリアは言葉では返さず、亜矢の両肩を掴むと、グっと力強く引き寄せた。
そのままの勢いで流れるようにして、驚いた顔をした亜矢の唇に深く重ねた。
それは今までにない、意識が霞んでしまう程に深く長い『口付け』だった。
言葉はなくとも、亜矢の戸惑いや不安を全て受け止めようとする彼の力強い意志が伝わってくる。
ようやく、肩に添えた両手を放して解放したが、亜矢の頬には零れ落ちた涙が伝っている。
「待ってろ」
言い聞かせるように眼前で強く言うと、グリアは亜矢を残して走り出した。
亜矢はグリアを追う事なく、その場でしゃがみこんだ。
今のは、確かに『口移し』ではなく『口付け』だった。
「グリ…ア……」
そのまま、亜矢はドアにもたれかかりながら泣き崩れた。
グリアは、息を切らしてマンションの階段を上り続ける。
(この胸クソ悪い気配は……ヤツか………!!)
グリアはギリっと歯を鳴らした。
階段を上り尽くし、辿り着いたのはマンションの最上階。屋上だ。
何もなく、ただ広いスペースと強めの風が吹くその場所に踏み入った時。
グリアの視界に入ったのは、長い髪を風に揺らし、たたずむその男の姿。
グリアは射貫くような眼で相手を睨み、憎しみをこめてその相手の名を口にする。
「天王……!!」
スーツを身に纏い、人間を装って『天真』という名を名乗っているが、そこに立っているのは紛れもなく天界の王。
距離をとって正面に立っているものの、グリアとは逆に天王は冷静だ。
「出不精の天王サマが、自らこんなトコまで出向くとはな。望み通り、てめえの胸クソ悪い気配を消しに来てやったぜ」
グリアはこの場所に立った時から敵意――いや、殺意に似た感情を露にしているが、天王はその瞳さえも少しも動かさない。
「死神よ。私がお前を呼んだのではない。お前が引き寄せられたのだ」
「うるせえよ」
感情のない、静かとも言える天王の口調は、逆にグリアの中の憎悪の念を煽る。
「そんなに欲しいかよ、亜矢とリョウが。……いや、亜矢の魂とリョウの力が」
「……」
天王は問いかけには答えない。
グリアをこの場に呼び寄せておきながら、最初からグリアを相手にするつもりはない。
グリアは自分の手に『死神の鎌』を出現させると、刃先を天王に向けて構えた。
「テメエを殺れば、天界は終わりだな?」
グリアは口の端をつり上げた。
刃を向けられても天王は動かず、警戒体勢も取らない。
天王はその静かな瞳の奥で、グリアではない全く別の物に目を向けていた。
グリアは眼中にない。
「オレ様は、テメエも……テメエ色に染まった天界も気に入らねえ。ここで潰すぜ」
ここで、ようやく天王は眼前のグリアに向かって静かに笑いを浮かべた。
「死神グリアよ。お前にそれが出来るか?」
グっと、グリアは鎌を握る手に力をこめる。
その頃、リョウの部屋では。
亜矢と同じく、リョウもまた心の中で迷いと葛藤を繰り返していた。
まるで出口のない迷路を彷徨うかのように、いくら考えても何も答えは出ない。
何故、ここまで心が苦しいのだろうか。
自分の意志とは一体、どこにあるのだろうか。
自分は一体、本当は何を守りたいのか――?
何も分からない。
その時。
ドクン……!!
先程、グリアが感じたものと同じ大きな力の振動が、リョウの中でも響いた。
リョウはその力を感じ取ったその瞬間、我を失って立ち上がった。
何かを考えるよりも先に、玄関を出て走り出していた。
(行かな…きゃ…………!!)
近くの場所で、何か大きな力が反発しあっているのを強く感じる。
(止めなきゃ…………!!)
リョウは我を忘れ、マンションの階段をかけ上る。
その強大な力に導かれ、引き寄せられて。
リョウが辿り着いた先は、マンションの屋上。
その瞬間、リョウの目の前にあった光景は衝撃的なものだった。
グリアが鎌を構え、天王に斬りかかろうとしていた。
天王は、リョウがこの場に来た事を気配によって気付いたが、瞳は動かさずに静かにグリアを見据えたままだ。
グリアはリョウの姿に気付いていない。
天王は微かに口元だけで笑った。
今、天王が目的を果たす為に必要なものが全て揃ったのだ。
「愚かなる死神よ。全ては私の手中に収まる運命にある事を思い知るがいい」
「させるかよ」
「お前が1年かけて甦らせた少女の魂もだ」
「………ッ!!」
その言葉が引き金となり、グリアは天王に向かって鎌を振り上げた。
その勢いはまるで、疾風の刃。
だが、目前に迫るグリアに対して天王は少しも動じる事もなく、構える事もない。微動だにしない。
天王は、全てを見透かしていたからだ。
この次に、何が起こるかを。
この展開ですら、天王によって仕組まれた筋書きの1つでしかないのだ。
「………ッ!?」
刃が届くその寸前、グリアは手を止めた。
「リョウ!?」
グリアが振り下ろした刃先の前には、リョウが立っていた。
それは、まさに自分の身を挺して天王を庇う体勢だった。
鎌の刃先は、リョウの鼻先に触れそうなくらいまで迫った位置で止められていた。
とっさの行動だったのだろう。リョウの額から汗が流れ出ている。
「何やってんだよ、グリアッ!?」
温和なリョウらしくなく、眼前のグリアを睨みつけて力の限り叫ぶ。
予想もしていなかった事に、グリアは瞳を大きく開いたままだった。
ようやく鎌を引くと、後方に下がって少し距離をとった。
だが、すぐにグリアは今まで天王に向けていたはずの憎悪をリョウに向けた。
「リョウ……。テメエが守りたいのは、天王ってワケか」
リョウの後ろに立つ天王は、今だに少しも体勢を崩さない。
天王にとっては、後は事の成り行きを傍観するだけでいいのだ。
「………ボクが守りたいのは……!!」
リョウの声は震えている。自分で自分の行動に戸惑っていた。
言い終わる前に、グリアが言葉を繋げる。
「亜矢か?」
「………………」
「亜矢がそれを望んだのか?テメエの助けが欲しいと言ったのか?」
リョウは言葉を詰まらせた。
「いい加減に気付け。呪縛が解けた今も、てめえは天王に支配されてんだよ。心の定まらないヤツの助けなんざ、誰も必要としねえ」
「……………!!」
その言葉が、リョウにとって大きな衝撃となった。
リョウの中で、あの時の亜矢の言葉が思い出される。
『あんな危険なやつ、放っておけないでしょ?』
――亜矢ちゃんは、きっとグリアを必要としている。
そして、あの時のレイナの言葉。
『グリアさんは、素敵な人だな……って』
――レイナも、グリアの事を必要としている。
自分は?自分は、誰かに必要とされた事があるのだろうか?
その迷いが生んだリョウの答えとは―――
「グリア……どうしてお前はいつもボクから奪うんだよ……」
グリアとの絆を選んだ為に、逆に沢山のものを彼によって奪われ、失った。
いっそ、彼を憎む事が出来たならどれだけ楽だろうか。
自分を偽り続けたリョウの心が、堪え切れず崩壊していく。
「もうこれ以上、ボクから奪うなっ!!」
声を振り絞って叫んだ。前髪が垂れて表情を隠す。
ようやく、リョウは気付いた。
亜矢を守りたいと思うのは、使命や責任感によるものではない。
本当は、心の奥底では、グリアにさえ奪われたくなかった。
亜矢の心を。
だが、もう遅かった。
自分が無意識のうちに天王に動かされていたとしても。
それを認めず、否定し続けて苦しむくらいなら……
天王に従う事こそが、自分の意志だと認めてしまえばいい。
逆らえないのなら、従えばいい。
拒めないのなら、受け入れてしまえばいい。
リョウの心の迷いは今、運命への服従という『狂気』に辿り着いた。
リョウのその叫びが虚空へと消えた後、リョウとグリアの間を風が吹き抜けた。
それはまるで、目に見えない絆を切り裂く刃。
少しの沈黙の後、グリアが重く静かに口を開いた。
「それが、てめえの答えか」
グリアの冷たい瞳が自分に向けられた時。
リョウはもう、後には引けない所まで来た事を感じた。
「全てボクの意志だ」
狂気へと辿り着いた心は、強大な力となってリョウの迷いを消した。
「なら、てめえは敵だ」
グリアは背中を向け、歩き出した。
その背中を見ているうちに、リョウは突然全身に激しい虚脱感を覚え、ガクっと体勢を崩して地に膝をついた。
今まで何があっても、グリアはリョウを突き放す事だけはしなかった。
今、大切な物をまた1つ失ってしまった事実。
迷いは消えたはずなのに、胸が張り裂けそうな程に痛く苦しい。
グリアが立ち去った後。
リョウが苦しみに震えていると、背後から聞き慣れた声が響く。
「魂には還る場所があり、天使もまた従うべき主の元へと還る運命にある」
リョウは地に頭を垂れたままだが、その言葉は不思議なくらいにリョウの心に響く。
「天使・リョウ、自覚せよ。決して運命には逆らえぬ。お前は決して私を拒む事は出来ないのだ」
大事な物を失い、自分自身を見失い――行き場を失ったリョウ。
天王はリョウの心を全てを見抜き、自分の思惑通りの場所へと導く。
「天使・リョウ。私の元へ戻るがいい」
伏せていたリョウの瞳が開かれる。
そう、今のリョウが求めているのは、自分を必要としてくれる存在。
リョウの中で、1年前に呪縛を受けた瞬間の記憶が思い出される。
あの時の、天王の言葉。
『天使・リョウ。私はお前を失いたくはない』
――そうだ、あの時も天王様はボクに……
あの時から、天王はリョウを必要としていたのだ。
リョウはゆっくりと振り返ると、天王を見上げた。
少し前までは天王を見るだけで恐怖に震えていたのに、目に映った天王の姿にかつての信仰心が甦る。
「再び私に仕える事を誓うか?」
命令形ではなく疑問形なのは、リョウ自身の口で答えを出させる為の最後の引き金。
それは天王が作り出した、リョウの最後の逃げ道。
「………はい。天王様」
導かれるまま、リョウは自らの口で答えを出した。
今、天王の筋書きの一節は、彼の思い描いた通りの結末となって完成した。
「ならば、私への忠誠をこの場で示せ」
リョウは片膝を上げて天王の眼下で跪いた。
かつて天界に仕えていた頃、玉座の前でそうしたのと同じように。
それは、天使が天界の王に従う事の証。
リョウは、再び天王に仕える事を自分の意志で決めた。
かつてリョウに呪縛をかけ、
亜矢の魂を奪おうと仕向け、
グリアを消滅させようと企てた天界の王に。
死神と天使を繋げていた絆は、完全に断たれた。
天使・リョウは、再び天王の手に堕ちた。
屋上から立ち去ったグリアは、マンションの自室まで歩いて戻った。
先程、亜矢を振り切って走り出した時の勢いはどこにもない。
その足取りは、どこか重い。
マンションのグリアの部屋の前では、亜矢がドアを背にして、寄りかかって立っていた。
グリアが目の前に立つと、亜矢は俯かせていた顔を上げた。
グリアはどこか力のない眼で亜矢を見下ろした。
「まだここに居たのかよ」
亜矢はムっとして睨み返す。先程の涙はすでに乾き、いつもの強気な亜矢だ。
「あんたが居ろって言ったんじゃない」
何か言い返して来ると思ったが、グリアは呆然と亜矢の顔を見たまま何も返さない。
力のない眼―――。
亜矢がグリアの顔を注意深く覗き込む。
「やだ……。なんで、あんたまで悲しい顔してんのよ?」
グリアはフン、と鼻で笑った。
「はあ?バカ言ってんじゃねえ」
亜矢は何故か心が痛むのを感じた。
一体、グリアが走って向かった先で何があったのか。
亜矢は胸の中で、不安に似た胸騒ぎを感じた。
次の日も、いつもと変わらない日だった。
いつもと変わらない朝。
いつものように亜矢も、グリアも、リョウも高校へと登校する。
だが、1つだけ大きく変わった事と言えば。
グリアとリョウが言葉を交わさなくなった。
二人の間から、一切の会話が消えた。
行動を共にする事もなくなった。
お互い、会う事を避けている訳ではない。
だが、例え互いが視界にいようとも、すぐ横を通り過ぎようとも、目を合わす事も、言葉を交わす事も一切しなくなった。
亜矢に対しては、グリアもリョウもいつもと変わらなく接してくる。
なのに、亜矢が何を聞いてもグリアはリョウの事、リョウはグリアの事について触れない。
口を閉ざし、相手の事を口にしない。
亜矢はそんな二人を見て胸の奥が苦しい程に痛むのを感じた。
今まで、亜矢が入り込む事が出来なかったグリアとリョウの絆。
それが、今は完全に消えてなくなっていた。
グリアと、リョウと、コラン。3人の力によって甦った亜矢の命。
絆の力に満ちていたはずの命が――この心が、痛い。
亜矢は自分の胸元を押さえた。
(………どうして、こんな事に……?)
ここは、天界。
天王の宮殿内にある、天王の間。
珍しく天王はカーテンの内側の玉座ではなく外に出て、一人用の小さなテーブルに腰掛けていた。
その白いーテブルの上にはティーカップと、小さな袋が1つ。
亜矢が手渡した、手作りクッキーの入った袋。
天王は袋の中から1つクッキーを取り出すと、小さくかじった。
「奪う事しか知らぬ愚かな死神よ」
その天王の口調は独り言のようで、遠くにいるグリアに語りかけるようでもある。
「私に刃を向けた瞬間から、お前は自らの鎌で絆をも切り裂いたのだ」
天王は自分の手元にあった視線をすぐ目の前に向けた。
「そうは思わぬか?」
天王が目を向けた先には、リョウが立っている。
グリアの名を耳にしても、何の反応も示さない。
「…………はい」
ただ、静かに軽く頭を下げた。
リョウの背中には、二対の羽根。
かつては呪縛によって黒く染まった両翼は、今は本来の色に戻っている。
以前と違うのは、リョウが身に纏っている正装が、天使に相応しくない深黒の色。
襟元や袖の先に細く小さな鎖の装飾が施されている。
まるで、運命の鎖に縛られたリョウの心の内を表しているようだ。
その黒衣は、闇に堕ちたリョウの心の色の象徴。
その純白の羽根は、天使である事の証。
そして、自らの意志で天王に従う事を示す心の象徴。
断ち切られた絆。心の闇へと堕ちた天使。
天王によって仕組まれ、絡まった運命の糸。
それを断ち切る刃は、今はまだ見えない。
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