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深謀の蜜
秋の夕暮れ。生徒会室から射し込む光が、室内を茜色に染める。
『允、そろそろ切り上げて帰ろうか』
『小腹空いたでしょ。ちょっと待ってて』
処理の済んだ書類を揃えながら切り出した結城に、允はおもむろにシャツの袖を折り立ち上がる。鞄から取り出したのだろうか、片手に小さな紙袋を持っていた。
しなやかな筋肉をまとうのがシャツの上からでも分かる允の背中に視線を馳せながら、結城は小さく吐息を落としていた。
結城は罪悪感を抱えたまま、ベータが多く在籍している公立の中学校へと進学をした。
そして、すぐに自身がベータだと判断され、精神的には楽だったものの、将来の進路はあらかじめ決まっていた為に勉学に日々励んでいた。おかげで学校では常に学年上位の成績を残し、高校への進学も学力の高い公立か私立か悩んでいた所へ、秋槻の当主から允の要望もあり、学園へ再び通わないかと打診を受けたのだ。
当初は、結城本人も両親も難色を示していた。幾らなんでも勝手すぎるのではないか、と。
確かに允は結城に対して執着を見せていたし、牽制もかなりの頻度でしていたのも知っていた。だがそれは子供の独占欲のようなものだと思っていたから、結城は優秀な允がいつか気づいて、それなりの距離を取るだろうと思っていた。
両親も子供に振り回される主に対し、秋槻当主に苦言を呈したそうだ。
そして結城には紘が説得にあたったのだが。
『どうして紘様が?』
中学最後の夏休みに入る直前。梅雨が明けた空は青く陽光は殺人級に肌を刺す中、夏だというのにスーツをまとった紘に待ち伏せされ、半ば強制的に車へと押し込まれてしまう。
『今日の終業式なら、確実に結城が捕まるかと思って』
ジャケットを脱ぎながらにっこり笑い、それにしても暑いね、ときっちり締めていたネクタイを緩め、紘は車内の冷たい空気を汗ばむ中へと送る。
『でしたら電話でも……』
『電話だと逃げるつもりだったでしょ? 既に三兎の方から聞いてると思うけど、結城の進学について話をしに来たんだ』
『父から学園に再入学を打診されてると。でも、どうして紘様が』
いつの間にか走り出した車の中で、将来仕える相手を睨み据える。
大人に振り回されごめんだったからだ。
正直、允とは離れたくなかった。楽しかった時も辛かった時もずっと傍に居てくれたのは允ただひとりだったから。
小学部入学当初から、名付きとはいえベータ家系の結城は、アルファ家系の子供達からバースが判ってないにも拘らず嫌がらせを何度か繰り返された。
小さいけれど地味ないじめ。怪我をさせれば親だけでなく秋槻の家にまで迷惑を掛けるからとずっと我慢を強いられてきたのだ。そんな苦しい結城の傍に居て守ってくれたのは允。唯一自分の味方である彼に、結城自身も依存の気持ちがあった。
結城は允が隣に居るのがこれかも続くと確信していた所へ、二人は大人に為すすべもなく引き離されてしまった。
そして今度は允の為に学園へと戻れと言う。
大人の思惑に振り回されるのは嫌だったのだ。
『手負いの獣が余計な知恵をつけてきちゃったからね』
『はい?』
『いや、何でもないよ』
紘の告げた言葉が理解できず、結城は首を傾げる。
手負いの獣? それは允の事だろうか。允が何かしら知恵をつけた事によって、結城が学園に戻る話になったとは、一体どういう事なのだろうか。
『……もしかして、允が何かをして、それが結果俺が学園に戻る原因になった、という事ですか?』
『察しが良いのも問題あるよね』
眉尻を歪め苦く笑う紘は、それもあるけど、と前置きをして言葉を続ける。
『允が結城の再入学の原因の大元にはなってる。ただそれだけなら、私も両親も君が允の隣に戻そうとは考える余地もなかったんだけど……』
はあ、と長嘆した紘が、
『今回の件はうちだけでなく、四神の他家もちょっと関わりがあってね。あまり詳細を語る事はできないが、それもあって打診せざえるをえなかったというのが本当かな』
『四神が……』
普段は動じないタイプの彼が、疲労感たっぷりに言うものだから、今回の話は秋槻をもってしても覆らないのだと、その様子で確信してしまう。
『ですが、四神の中でも上下関係があるんですか? 一般常識的に四神は同等と父からも教えられているんですが』
『ああ、うん。普通は知られてないけど、一応あるんだよ。上下関係』
車内の質の良い皮の座面に身を預けきった紘は、重く深い溜息を吐く。
記憶にある限り紘のそんなだらけた姿を見たことはなく、結城は驚きで目を見張った。
脱力した紘の話によると。
『四神』には、青龍の桜樹、朱雀の朱南、玄武の寒川、そして白虎の秋槻がある。
かつてはそれぞれが傍流のオメガを娶りパワーバランスを取っていたものの、その微妙な均衡を壊したのは、現在政治家としてメディアでも日々名前があがる朱南家だった。
朱南家は政治的目的で医療に精通している寒川家と繋がりを強くする為、自分の娘と今は亡き寒川の元当主との婚姻を結び、現当主を産み落とした。
その為、小さくではあるが差ができてしまったらしい。
とはいっても、そう感じるのは秋槻だけで、桜樹は我関せずを貫いているそうだが。
『桜樹はちょっと変わった家でね、神託とか夢見とかオカルトめいた家系なんだ。だから、他の三家みたいに水面下で権力の牽制なんてしないし、彼らは彼らで独自のネットワークを持っていて、それは三家よりも深く根を張ってたりする。でも、まあ、あの家は誇示したりしないけどね。ある意味無視できる存在であり、放置できない存在だよ』
『そうなんですね。ですが、それと俺の話とは関係ありませんが』
淡々と事実を述べれば、『たった三年で可愛げがなくなったね結城』と紘が本音を零す。
『ま、結局、結城は秋槻の傍流で、主従関係を持っているけど、寒川のバックアップがついたって事かな。それも允と共に。故に、秋槻は強く出れない為、允の要望を必死で叶えなくてはならないんだ。朱南に続いて力のある寒川に、うちを潰されてはたまったものじゃないからね』
何やらおおごとな内容を聞かされた気がし、思わず身震いをする。
自分の預かり知らぬ場所で、何かが動いてるのが、不気味でたまらない。
『うちが潰れれば、三兎も共倒れだ。君がそれを望むのなら打診は蹴ってもらってもいい。そうでなければ……』
『話を受けろ、って事ですね。脅迫ですか、それは』
『うん、脅迫してる。私も我が身が可愛いからね』
飄々とのたまう未来の主を見て、結城は深い吐息を落とす。たかだか自分の進学で物事が大き過ぎる感は否めないが、逆にたかが進学で両親を不幸にしたい訳ではない。
『わかりました。俺には四神の権力闘争には興味ありませんが、それで両親が不幸になるのは看過できないので』
『そう。君ならそう言ってくれると信じてたよ』
作り物めいた紘を見つめ、内心で『この狸が』と悪態をついていた。
かくして結城は懐かしい学び舎へと三年ぶりに舞い戻る事になった。
バース性が判定されるまでは多少の牽制はあった学園は、明確に分類された高等部という場所のせいか、あからさまな性差が生まれていた。
この学園の多くはアルファ名家の子や一般のアルファで会社経営している親の子供だったりが在籍してる。ベータも結城を含め名持ちだったりが通っているが、自分とは違い彼らの一部はコネクション作りの為に学園へと放り込まれたらしい。
そしてここにも少数ではあるがオメガの生徒もいる。
名持ちの名家だけでなく、容姿端麗な一般のオメガも奨学生として通学していた。一般の彼らの目的は、自分を『飼ってくれる』アルファを掴み取る為。
その筆頭が、高等部では允と中級階級『扇合』の茅花の次男、中等部では同じ『扇合』の香月の双子の兄である桜音。弟である桔梗はオメガだそうだ。
支配思想の強いアルファが多く在籍しているからか、ベータもオメガも肩身が狭い思いをしている。
そんな辟易する学園に戻った結城は、入学試験で次席を取った為、教師から生徒会の加入を打診された。当然というべきか会長は既に指名で允に決定されており、それならばと結城は引き受ける事にしたのだ。
結城は今日までの事を允の背中をぼんやり眺めながら邂逅していた。
すると、ふわりと紙の匂いに包まれていた室内に華やかで甘い香りが鼻腔を擽る。
『はい、どうぞ』
『……ミルクティ?』
コトリと書類の隙間に置かれたソーサーに乗ったカップの中には、淡いベージュ色をしたミルクティがたっぷり入っていた。
『多少は腹持ちするだろうから、ミルクティにしてみたんだ。もしかして苦手だった?』
『いいや。好きだよミルクティ。でも、ちょっと花の香りがするけど……これは?』
『ああ、ちょっと特別な蜂蜜を入れてあるんだ。かなり希少なものだから、結城だけに飲んでもらいたくて。だから他には秘密』
唇に指先をあててウインクしてくる允は、たった三年離れている間に随分と様変わりしていた。
飴色の髪は薄闇に透けて妖しく煌き、緑の瞳は昔よりも色気が滲んでいる。体つきもアルファのせいか一気に伸びた身長に似合う細身ながらもバランス良い筋肉質で、端正な容貌と釣り合っている。
これなら、いつも隣に立つ結城に対してアルファもオメガも、やっかんでくるのも仕方ないなと頷けた。
允に勧められるままカップの縁に口をつけ熱いミルクティを含む。こっくりとしたミルクが紅茶の渋みを上手く調和させ、口の中がさっぱりした後を追いかけてくるようにふわりと甘やかな花の香りが広がる。
『甘味が足りなかったら追加する?』
『そうだな。もうちょっと欲しいかも』
これでも十分事足りているが、何だか花の香りがもっと欲しくて堪らない。
允は先ほど持っていた紙袋からラベルの貼られていない小瓶と、ロリポップ状の木の棒を取り出した。
『特別な蜂蜜なんだけど、たくさん入れてお腹壊されたくないから今回はひと匙分だけ足すね』
そう言いながら、蓋を開き木の棒に蜂蜜をまとわせる。辺りに濃密な花の香りが微かに散る。酔いしれそうな甘い香りに頭が霞がかったようになっていると、どうぞ、と允の声が脳内に反響し、はっと我に返った。
少しだけ匂いの強くなったミルクティは、思いのほか喉を抵抗なく通り、気づけば二杯目をお代わりしていた。
そんな結城を、允はストレートティの白い湯気の向こうで笑みを深めていた事など全く気づく事なく、最後の一滴まで堪能したのだった。
あれは允との二人だけのティタイムをするようになって二年経った頃だろうか。允からあの蜂蜜と同じ花の香りを時折感じるようになっていた。
『允、何か香水でも付けてるのか?』
『香水? いや、特に何もつけてないけど』
どうかした? と首を傾げる允に、なんでもない、と返した結城は、以降時折允から香る匂いに首を傾げるばかりだった。
もしかしたら疲れているのかもしれない。そう、原因を帰結しようとした結城には思い当たる事があったからだ。
一年時から誰となく小さな悪戯が結城の周囲で見られるようになった。
それは些細なもので、児戯にも満たない程だった為、ずっと静観していたのだが、時が経つにつれ次第にやり方は悪どく、陰湿なものへと変わっていった。
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