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悪意の独壇場
『またか……』
昔の悪戯の経験が記憶に残ってるからか、高等部に入学してから机の中には教科書やノートなど一切置かず帰宅していたのだが、たまたま昨日、允に貸した化学のノートが無残な姿となって入っていた。
多分、一足先に来ていた允が置いてくれたものを、誰かが悪意を持ってぐちゃぐちゃにしたのだろう。
『勘弁してくれよ』
『結城?』
『っ、み、允』
がっくりとうなだれる結城の背後から允の声が聞こえ、結城は咄嗟にノートを机の中へと押し込んだ。
『どうかした?』
『あ、うん。授業前で悪いんだけど、ちょっと生徒会室に来てくれる?』
『……分かった』
一刻も早く允の意識を逸らせたくて結城は先頭を切って教室を出たために気付かなかった。允の鋭い眼差しが結城の机へと注ぎ、そしてある一角──カーテンの影にうっすらと揺れる人影へ移った事に。
教科書等は学校の購買部で発注すれば新しいのが手に入る。だが、学費の殆どを秋槻に負担を受けているだけに、気軽にお願いする事もできない。ノートについては数回似たような事があった為にできる限りコピーを取ったりして回避するようにしていた。
それでも痛手は痛手だ。本当は大元を叩くべきなのだが、主犯の取り巻きが人を使ってやっているせいか明確な犯人が曖昧で、なかなか解決には至ってない。
正直、高校生活も残り半年もないこともあり、あと少し我慢すればいいか、と諦観していたのだが……
そろそろ冬支度をしようか、という晩秋。結城は学園祭の後処理の為に多忙を極めていた。それは犯人も同じだったようで、最近は小さな悪戯も沈静化しつつあったせいで散慢になっていたらしい。
結城は生徒会室にむかうため、職員棟のある渡り廊下を歩いてる途中、植え込みの影に蹲る何かを見つけ駆け寄る。
『君、どうかしたのか?』
細い肩に手を置いた途端、中等部の制服を着た小さな背中がビクリと震える。ゆっくりと振り返った紅潮した顔を認めた途端『あれ?』と思わず声が漏れていた。
錆色の柔らかな髪と茶色の中にうっすらと緑の混じった双眸を持った少年は、中等部の生徒副会長をしていた香月桔梗だったからだ。
『えっと、間違ってたらごめん。香月桔梗君の方だよね?』
『……う、は、い』
気分でも悪いのか、呼吸は荒く、香月は震える体を自分の腕で強く抱き締めている。
『大丈夫か? もし吐きそうとかならトイレまで付き添うけど』
『い、え……そうじゃ、なく、て』
頬を染める赤を濃くしながら、香月は潤んだ瞳を地面に落とし落ち着きなく彷徨わせた。
(もしかして……)
『発情期?』
結城の問いかけは正解だったのだろう。香月はビクリと肩を動揺に揺らして、更に体を小さく縮めてしまった。このまま放置しておくのは危険だ。オメガとはいえ、香月はアルファ中級家格の子息だから。
『抑制剤は飲んだ?』
まだ番う年齢に達してないだろうから、ある程度は薬で抑えるしかない。そう思って尋ねてみたが、香月はふるふると弱く首を振るだけ。もしかしたら、初めての発情期になってしまったのだろうか。
『三兎せんぱい、ベータの方……でしたよね。俺のフェロモンだいじょ、ぶ、なんです、か』
『え?』
言われてみれば、微かに花の香りはするものの、理性を無くすほど酩酊してもいない。
オメガのフェロモンに強烈に反応を示すのはアルファなのは一般的常識だけど、ベータにもアルファ程ではないけどオメガのフェロモンに反応する。
世の中にはベータとオメガの夫婦が少数ではあるものの存在するのは知っていた。
結城はベータだ。これは中学に入ってすぐに受けたバース診断の結果が示している。
それなのに、なぜ香月のフェロモンを殆ど感じないのはどうしてなのか。
疑問を浮かべてる間にも、香月の状態はどんどん悪くなっていく。
『とりあえずその事は置いといて、今から保健室に行って抑制剤を手配してもらうから』
もう少しだけ頑張れる? と声を掛ければ、香月は俯くように頷いてくれた。
生徒会の仕事も大事だがこちらは下手すると暴行事件へと発展する可能性がある。あまり楽しいと言えない学び舎だけど、香月には関係ない話だ。
すぐに戻るからと伝え、急いで保健室のある職員棟へと駆け出したのだが……
『ねえ待ってよ。あんた、三兎だよね』
急に呼び止められ、焦りを滲ませながら振り返る。そこには見るからにオメガだと分かる生徒が一人素行の悪い男子生徒を三人従え、結城を見てニヤニヤしていた。
『そうだけど、今は急いでいるんだ。話なら後にしてくれないか』
『こっちも大事な話があるんだよね。大人しくついてきてよ』
華奢で、見た目も良い筈のオメガの生徒は、粗野な言葉と態度で結城に命令を下す。人を従わせるのに慣れているのは、後ろの三人を見て何となく気づいていたものの、無意味な輩に構っている暇はない。
『悪いがこっちのが優先だ。それじゃ……』
『逃げて、秋槻様に助けでも求めるつもり?』
『は?』
不意に告げられた幼馴染の名前に、結城は怪訝に眉をひそめる。
『ねえ、ベータの癖にどうやって秋槻様に取り入ったの? アルファの子供も産めない男のベータなのに』
『もしかして、あっちの具合がいいのかもな』
オメガの生徒に便乗するように後ろの男子生徒が卑下た笑い声をあげる。あまりの不愉快さに眉間の皺が深くなる。
『ま、どっちでもいいや。あんたはもう秋槻様の前に出れなくなるんだからね』
オメガの生徒は細い顎をクイと動かし三人を動かす。待機していた三人は待ってましたとばかりに結城に飛びかかり、羽交い締めしてきた。暴れて回避しようとしたが、すぐ近くに香月がいたためそれも叶わない。
『くっ、離せ! こんな事をしてただで済むと思ってるのか!?』
『思ってるよ。特徴のない、ありふれた存在のベータなんて、一人消えた所で何も変わらないもん』
身をよじって拘束から逃げようとするも、暴れれば暴れるほど締めつけが強くなる。
(こいつら、何も知らない一般のオメガとアルファか? だとしたら、香月の近くにアルファを近づけるのは危険かもしれない)
幸か不幸か、彼らの位置からは香月のヒートは気づかれていないようだ。
自分の身より香月の安全を取った結城は『分かった』と抵抗を弱め、彼らの意思を受け入れる姿勢を見せた。
『ふふ。最初から従順な態度をすれば良かったのに』
『……そこで何をしてるのかな』
作戦の成功が見えた余裕なのか、くすくす笑うオメガの生徒の声を遮るように、結城にとっては毎日耳にしている、だが普段とは違う低い声音が彼らの独壇場を切り裂いた。
『あ……秋槻様』
慕う男が現れたからか、先ほどまでの醜悪な表情は鳴りを潜め、可憐な笑みを浮かべ突然現れた允へと駆け寄る。
『あの……僕』
『もう一度尋ねるよ。そこで、僕の結城に何をしているのかな? ねえ、君に耳はついてないの?』
コンクリート敷の渡り廊下を、允は硬質な靴音を立てこちらに向かってくる。位置的に允の背中しか窺えないが、オメガの生徒の青褪める様子からして、随分と允を怒らせてしまったようだ。
『あ、あの……』
『随分と長期に渡って下らない行動をしてくれたもんだね。僕が何も知らないと思ってたの? 幾つも証拠も証言も揃っているんだ。今までは結城が頑張ってたから静観してたけど、こうして現場を目撃した以上、生徒会長として、秋槻として、大事な結城を傷つけようとした報いは、当然受け入れるつもりなんだろうね』
『……っ』
『ちなみに、そこのアルファども。結城はベータだけど、秋槻の傍流の家柄の子息だよ。一般のアルファが手を出して良い存在じゃない。いい加減手を離したら?』
允の覇気に充てられたのか、それとも結城の家の事を知って怖気づいたのか、アルファの生徒達はあっさりと拘束を解いた。
『允!』
『あんまりにも遅くて心配になったけど、探しに来て正解だったね。結城が無事で良かった』
『それよりも、香月がヒートになって、そこで……』
解放された結城は允に駆け寄ると、香月の窮状を話す。允はちらりと蹲る香月へと視線を移し、制服のポケットからスマートフォンと取り出すと、どこかへと電話を架け始めた。
『……ああ、すみません。秋槻です。今、ヒートになったオメガの生徒を発見したので、至急抑制剤の手配をして、職員棟近くの渡り廊下へとお願いします。あと、中等部の生徒会室へ、香月会長の弟君がヒートを起こしたので、迎えに……ええ、そうです。抑制剤が届くまでは、この辺りを通行不可にします。……はい、では、お願いします』
淡々と会話を終わらせた允は、凍りついた四人の生徒へと目線を向ける。
『君達はすぐにここから立ち去れ。先ほどの処置については、明日学園側から連絡が行くと思うので、せいぜい自宅で今後の事を考えた方がいい』
『まって……待ってください、秋槻様! 僕は、あなたの事をずっと……』
『ずっと好きだった、とか言うのなら、まずは僕よりも結城と親しくなった方が良かったね。まあ、その頭がなかったから、こんな愚行を犯したのだろうけど』
馬鹿だよね、と冷ややかに嗤う允に、結城は戸惑う。
結城の知っている允は、多少我が儘で執着心の強い人間だと思ってはいたものの、こんな風に冷笑を浮かべて断罪する人ではないと。
『今まで辛い思いをさせてごめんね、結城。もう、大丈夫だから』
今までの冷たさが嘘のように結城の後頭部を撫でながら労わってくる允。
あの蜂蜜と同じ甘く溶けそうな香りを感じ、緊張に強ばっていた心が解けていく。
もう何が何だか分からずに、結城は允の広い胸に頭を寄せて、ただ一言『ありがとう』と呟いた。
その後、抑制剤を持って慌てて来た保健医によって、香月は多少の時間がかかったものの落ち着きを取り戻す事ができた。そして迎えに来た香月兄と一緒に帰宅の途につく事になったのだが。
『三兎先輩、ありがとうございます。先輩のおかげで事なきを得ました。さっきのアレについては誰にも言わないので、先輩も気をつけて』
香月兄に肩を支えられ、足元をふらつかせながら去っていこうとした香月がふと足を止め、結城にそう曖昧な警告を発した。しかし、結城にはその意味が分からないままで『分かった。ありがとう香月』と言葉を返したのだった。
あの香月の言葉を深読みしていたら、どこかで運命が変わったのかもしれない。
今更の話だけど──
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