蜜の起爆剤

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蜜の起爆剤

「結城?」  心地よく耳障りの良い声と共に甘く脳を蕩かす香りが近づいてくる。 「あ……ごめん。ぼんやりしてた」 「仕事忙しいみたいだね。どうせあの人()が無茶言ってるんじゃないの?」  ミルクティの柔らかな香りで昔を思い出したとは言えず、結城が曖昧に笑みを零すと、允は仕事で疲れてると勘違いしたのか、実兄への悪態を吐露する。  相変わらず仲が良いのか悪いのか判断に迷う。 「大丈夫。紘様は俺にそこまで無理難題は押し付けてこないから」  結城は僅かに不機嫌となった允を宥めるように苦笑を漏らした。  実際、紘が無理な要望をしてきたのは、あの高校入学の脅迫だけだった。以降は結城の大学進学についても、秋槻の会社に入社してからの人事についても、特にゴリ押しひとつなく、逆に肩透かしを食らったくらいだ。  しかも、季節の変わり目には必ず有給も与えてくれる。紘の秘書だというのに大丈夫かと問いただせば「休んでくれないと困る」と一言だけ告げられ、さりげない好意に甘える事にしていた。 「最近、体調がよくないって言ってただろう? 少しくらいあの人が忙しくなってもいいから、結城は無理しちゃだめだからね」 「ああ。正直体調不良も謎だから、ちょっと不思議なんだけどな」  ふわり、と允の手が伸び結城の頭を優しく撫ぜる。途端に甘い芳香が結城の体の奥深くまで染み込んでいくようで、まるで酒に酔ったような、考えるのさえ億劫な気持ちになる。 (そういえば、体調を崩すようになったのって、あの蜂蜜と同じ匂いが允から香るようになってからかもしれない……)  大学に入学してから、これまでの学園の多忙さで積もりに積もった疲労が滲みだしたのか、季節の変わり目になると必ずと言っていいほど結城は一週間程寝込む事が増えた。  最初はただの風邪だと思っていたのだ。微熱がずっと続くし、体に熱がこもったような怠さと目眩。少し違うのは、この時ばかりは普段淡白な性欲が増すからか、結城の雄芯がずっと固く張り詰めている事位か。  それもいわゆる「疲れマラ」だと思っていたから、誰にも相談せずに自己処理していたが。  このような状態が何度も続いたせいか、心配性の允が検査の手配をしたから、と連れて行ってくれたのは、昔紘から聞かされた寒川家が経営している総合病院だった。  一瞬、紘から過去に出たアルファ名家が経営している病院を前に、結城は警戒した。ベータである結城を擁護する理由がずっと分からないままだったからだ。  そこで数日間、允に甲斐甲斐しく看病されながら検査入院をしたものの、特に原因らしい原因が見つからず、結局は過労による発熱と診断された。  時間が経てば落ち着くだろうと思われたそれは、大学を卒業して会社に入社した今でも変わらず、定期的に熱が出ていたのだった。  そして、発熱の始まりと同時に、允から香っていた匂いが、次第に強くなっているような気がした。  一瞬、学園の小学部の授業で習った、アルファとオメガのフェロモン反応を思い出したが、結城は自分がベータである為、早々にその考えを消した。  きっと、允があのミルクティを毎日淹れてくれるから、脳が記憶と匂いを直結させたのだろうと納得させた。  それに、允から香るこのドロリとした匂いは嫌いじゃない。何も考えずに甘やかされてる気がするから。将来、主になるだろう相手に恩寵を受けるのは間違ってるとは思うのだが。  お互い二十四になるし、今までみたいにべったりなのも問題あるよな、と悲観しつつも、あの允に切り出した別れの時に感じた胸の痛みが蘇り、どうしても切り出せないままだった。 「允、もうちょっと蜂蜜足してもらってもいいかな」 「了解。どの位足せばいい?」 「あとふた匙」 「気に入ってくれるのはいいけど、甘すぎて飲みきれなくても知らないよ」 「平気。この蜂蜜、いい匂いだし、そのまま舐めたい位好きだから」 「……っ、そう。それは良かった」  沈みそうになる気持ちを振り払うように、少し冷めてしまったミルクティを口に含むが、何だか物足りなさを感じ懇願する。  允はクスリと笑みを端正な顔に浮かべ、まだ熱さの残るミルクティを下げると、ラベルの貼られていない小瓶の中でトロリと揺れる蜜にディッパーを差し込み琥珀の液体を絡めていく。  最初はひと匙。段々とそれだけでは満たされなくて、ふた匙、み匙。現在では朝カフェに寄って大きなマグボトルに淹れてくれたミルクティが、結城の癒しとなっていた。それでも帰りには必ずカフェに寄るのだから、すっかり允の淹れた紅茶の虜だ。  トロリとした甘さが、疲れを取るだけでなく、心さえも落ち着かせる。  何だか允の匂いが体中に染み込んでいく気がして、ほう、と吐息が漏れた。 「そういえば、今日は泊まっていく?」  新作だと言って、紅茶と同じ蜂蜜を使用したマドレーヌを乗せた皿を結城に差し出しながら尋ねてきた。  週末はこうしてゆっくりお茶を楽しんだ後、カフェの二階と三階にある自宅スペースにお邪魔して、允の作る食事を堪能しては泊まっていく。  何故か結城用の部屋も用意されてる為、残業で一人暮らししているマンションに帰るよりも、会社に近いここに泊まる事も頻繁だった。  至れりつくせりに世話をされるものだから、気が付けば週の半分程を允と共にしている。  お互い年齢的にはそろそろ本格的に相手を探さなくてはならないが、秋槻家も三兎家もそういった話を一切出してこない。まるで、既に相手が決まっているかのように静観している。  再三に渡って、今の住居から引越しをして一緒に住もうと結城から提案されているが、どうしても主従の影がちらつき二の足を踏んでいた。 「ごめん。明日人と会う約束してるから、今日は帰る。でも、明日夕方にはここ(カフェ)に寄るから、その時に泊めてくれるか?」 「休みに出かけるなんて珍しいね。いつもはうちで惰眠を貪ってるのに」 「まぁな、明日はデートなんだよ」  結城はそう言って皿からマドレーヌをひとつ摘み口に放り込む。表面は飴化してカリッと、中はふわりと卵と蜂蜜の甘さが口中に広がっていく。  だから、結城の指先がピクリと震えたのに気づかずにいた。 「デート?」 「ああ。うちの会社に今年入社した受付嬢が、今日付き合ってくれって告白してきてさ。まだ返事は保留にしてるんだけど、明日一日デートしてみて感触が良かったら……」 「付き合う……んだ」 「多分?」  美味しさに手が止まらず、結構な量のマドレーヌはすっかり結城の腹の中に収まってしまった。カフェを開いてからというもの、元々器用な允の料理の腕は日毎上達しているらしい。  逆に允に胃袋を完全に掴まれた結城は、卵ひとつ割る事さえもままならないまま大人になってしまった。  アルファというのは本当に何でもこなせるのだと、結城は尊敬すらしていた。 「でも、今から帰って食事だと遅くなるし、夕飯はうちで食べていって。美味しい鶏肉が手に入ったから、ハニーマスタードチキンを作るし。ね?」 「お、美味そう。じゃあ、ご相伴にあずかろうかな」 「うん、そうして」  ふと、強ばったような顔をした允が、結城が快諾した途端にホッとしたように微笑む。  自分も允に依存してる自覚はあるも、允はそれ以上に結城に執着するのも相変わらずだ。ぬるま湯のような心地よさを憶えつつ、いつかは離れる事に寂寥感が胸をよぎった。  このままではいられない。その一歩が明日のデートだ。胸が裂かれそうになるけども、ベータの自分とアルファの允は、どう転んでも結ばれる事はない。だからこそ物理的に距離を作らなくてはならないのだ。 (あと、こういった時間を過ごせるのは何回あるんだろうか……)  允の自宅ダイニングで、カリカリの皮に絡む甘くて酸味のあるチキンや、色とりどりな野菜がたっぷりと使われたホットサラダ。トマトの赤の中で泳ぐ多種の豆のスープはお腹を温めてくれ、デザートがわりのホットワインのおかげで、帰るまで体が冷える事はなさそうだ。 「じゃあ、また明日。ところでデートはどこでするの?」  帰り際、明日の朝用にと例の蜂蜜入りのミルクティがたっぷり入った、マグボトルを渡しながら允が尋ねてくる。あの花の香りが一際強くなった気がした。 「駅前のビル。お昼食って、多分あの辺りぶらぶらするんじゃないかな」 「デートなのに結城が予定組むんじゃないんだ」 「あのなぁ、基本無趣味の俺に求められても困るから、事情話して向こうに一任したんだよ」 「それ、すぐに振られるフラグじゃない?」 「うるせー」  奪うように允からマグボトルを掴んだ結城は「また明日な」と告げ、足早に駅の方へと歩きだす。結城の家はここから三十分程の距離にある、ほぼ郊外に足をつっこんだ閑静な住宅地にマンションがあった。  近くに商店街があったりと利便性は良いようだが、料理をしない結城には糠に釘、提灯に釣り鐘である。  それでも週の半分を允の家で過ごしているのだから、距離を置こうという決意もあったものではない。 「でも、このまま共依存っていうのもなぁ……」  結城の呟きは、雑踏の音にかき消され霧散していった。 + 「デートねぇ」  結城の背中が雑踏の中に完全に消えると、允は冷ややかに声を漏らし踵を返す。  店舗脇の細い通路を歩き、奥にある階段を登って自宅スペースへと戻る。ダイニングテーブルには、結城が飲み干したカップと、ラベルのない小瓶。琥珀の液体が殆ど底をついてるのを眺め、允は唇の両端を笑みに釣り上げる。 「これで何十瓶目かな。寒川の研究者達の話では、そろそろ本格的に症状が出てもいい頃合なんだけど。特に今日に至っては一日で一瓶は軽く使用してるから、帰ってる最中に|発情(ヒート)するのは困るなぁ。結城は僕のなんだから。一応、警護をつけてるから、何かあれば連絡もくるだろうけど」  高校時代、結城へと淹れたミルクティに初めて入れてから約八年。  寒川玲司は上手くいくかは賭けと言っていたが、結城の発言を何度も耳にするたび確信へと変わるのを感じていた。 『允、何か香水でもつけてる? 花のいい香りがするんだけど』 『やっぱり、允何かつけてるだろ。前よりも匂いが強くなってる気がするんだけど』 『允の匂い、蜂蜜と同じだからかな。何だか安心する』 『平気。この蜂蜜、いい匂いだし、そのまま舐めたい位好きだから』  十年は覚悟するつもりでいた。研究者の話でも、短期の変化は体だけでなく精神にも異常をきたすと忠告されていたから。  しかし、結城に乞われてしまうと、大量摂取は駄目だと咎める事ができず、自分もそろそろ限界だったから、ここ数年の間はミルクティだけでなく、デザートにも食事にも使用するようになっていた。  今日だってマドレーヌ、ハニーマスタードチキン、サラダのドレッシング、スープの隠し味、ホットワインにもたっぷり蜂蜜を使用している。 「蜂蜜……ではないんだけどね」  允は空の小瓶を掲げ室内照明に透かす。  結城には蜂蜜だと言っていたが、これは允の遺伝子──精液から抽出した試薬が混ぜ込んである特別な蜂蜜だ。  何も知らない結城が美味しいと口にする度、允の股間が張り詰めていたなんて知らないだろう。  その後自分を慰めるのは侘しいものがあったけど、それももうじき終わる。  允は小瓶をテーブルに置き、リビングスペースに放置してあったスマートフォンを手に取り通話アプリを起動する。  いくつかの手順を踏んで通話画面をタップし耳に充てると「允?」と兄の声が近くから聞こえる。 「兄さん。結城が兄さんの会社の受付嬢から告白されたって聞いたばかりなんだけど、兄さんは知ってた?」 『は? なんだそれ。結城には決まった相手がいるからって周知させてるんだぞ』 「今年入社した子らしいよ。上司の話をまともに理解できないなんて、採用担当の怠慢なんじゃない? 二人共諭旨解雇じゃ生ぬるいから、懲戒解雇でいいよね。即時でも金さえ渡せば問題ないんだから」 『……お前なぁ』  呆れたような声が聞こえるが、允は気にせず話を続ける。 「ああそれから、結城は来週一週間お休みさせるからそのつもりで。そろそろ寒川の実験の成果が出るみたいでね。今日もちょっと顔赤かったし、数日中には|発情(ヒート)する筈」 『……そう、か』 「寒川に貢献できたから、これで秋槻が潰されるのは回避できたと思うよ。父さんにも大丈夫だよって伝えておいて」  それじゃ、と言って通話を終わらせ、允はソファにドサリと腰を下ろす。  明日は店は臨時休業して、近くからいつ結城がヒートしてもいいように見守ろう。きっと自分のフェロモンを感じたら、症状も加速するだろう。 「ああ……早く結城を抱いて、うなじを噛みながら孕ませたいな」  恍惚に瞳を潤ませ、允はすぐ来るだろう未来にうっとりと欲望を漏らした。
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