発情の覚醒

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発情の覚醒

「ごめん。やっぱり……」 「どうしても駄目ですか? まだ食事をしただけですよ?」  昨日、允の所へ向かおうとした結城を引き止め告白をしてきた若い女子社員は、大きな瞳を潤ませながら結城を見上げてくる。秋だというのに、ピンク系のメイクと服装をした彼女は、波打つ栗色の髪と相まってそこだけが常春のような雰囲気だ。本人からはベータと聞いていたが、オメガに匹敵する位可愛らしい女性だ。  ベータ男性なら、彼女のような容姿に心惹かれるだろう。だが、結城の心はひとつも揺れ動く事はなかった。  小さく零れた吐息は妙に熱い。風邪でもひいたのだろうか。  朝の十時に駅の改札口で待ち合わせをし、そこから少し早めの昼食を取った。  駅ビルにある彼女要望のイタリアンレストランに入る。白い壁や天井にこげ茶の梁が巡り、クロスのかけられたテーブルにはカトラリーとナプキン等がセットされ、いかにも高級感がある。結城は自分だと進んで来ない場所に既に疲れが出始めていた。  アペリティーヴォから始まり、アンティパストは数種類、綺麗な小皿に飾り付けられ美味しかったものの、何だか妙に物足りなさを感じる。  プリモピアットもセコンドピアットもコントルノもどれも上品な味付けで、それなりに美味しい。しかし舌が何かを求めるように、口に含んだ食べ物がなかなか飲み込めずにいた。  ドルチェは……ミルクジェラートに掛けられた黄金色の蜂蜜を目にした途端、あの花の香りのする允の蜂蜜が脳裏に浮かび、何だか落ち着かない気分となる。  ふと、あの蜜の匂いを微かに感じる。日毎強くなりつつあるあの匂いは結城にとってとても安らげる。きっと、無自覚に允の傍を離れたくないと思っているからだろう。 (だけどベータ男性である自分と、アルファ男性である允とでは、どう転んでも結ばれる訳はないし、そもそも秋槻の後両親も自分の親もそれを良と思わないだろう。仮に結ばれたとしても、ベータである自分では允の子供を身ごもる事はできない。俺の希望は泡沫の夢だ)  結城は異性愛者だ。同性に性的な感情なんて浮かばない。柔らかな肢体も匂い立つ甘やかな香りも好ましく感じる。いずれは女性と家庭を持ち、両親のようにいつかは子供を持ち、秋槻の家を支えるようになりたいと思っていた。  しかし、目の前に割と好みである年下のベータ女性がにこやかに微笑んでいるのに、結城の脳裏にはずっと允の姿が消えなかった。  允は好きだ。執着から囲っていたとしていても、允なら許せるし許容もできる。もし、自分がオメガなら、允になら番ってもいいとさえ思う。  だけどバース性はどう転んでも現実を知らしめる。自分はベータの女性と結ばれるべきなのだ。  結城は自分を異性愛者と言いつつも、允となら番ってもいいとさえ思っている。それがパラドックスを生み出している事など気づかずにいた。  食後のエスプレッソを飲みながら、彼女から映画に行こうと誘われたが、結城は謝罪をして席を立ち上がる。カップのエスプレッソは殆ど減ってなく、結城はちらりとそれを見たが、すぐに会計する為に近くに居た給仕にそれを伝えた。  どうにも気が落ち着かない。あれだけ濃厚なコーヒーの香りよりも、允から感じる花の香りが結城の体を取り巻くように感じられ、心がそわそわと結城を急き立てていた。 「待ってください!」  無意識に店を出て足が允の店に向かっている結城の背中に、トン、と軽い衝撃が襲う。 「あ……すまない」 「三兎さん、いったいどうしたんですか?」  振り返ると、春の色を纏う彼女が結城を見上げてくる。ベータにしては小柄で可愛らしい容貌、総務では見た目麗しいオメガを雇用してるようだが、その中にあっても遜色ない程度に愛らしいと、他の部署のアルファやベータの男子社員が噂しているのを耳にしたことがある。  そんな彼女が大きな瞳を潤ませて結城を見てくるが、結城の心は凪いだ湖面のように揺れ動く事がない。 「やっぱり君とは付き合えない。ごめん」 「どうしてですか? 三兎さんベータですよね? 私もベータなので、三兎さんに釣り合うと思うんですけど」  ベータだからベータと交際し、結婚するべきだ、と弱々しい双眸の中に、打算めいた色が顔を出す。  ああ、彼女も他の人間と一緒か、と落胆する気持ちが色濃くなる。  広汎なベータ。人口の殆どを示す当たり前な存在。ベータの男はアルファ、ベータ、オメガの女性と結婚、子作りはできるが、逆に他のバース性の男性とは結婚はできても子供を為す事はない。  変哲もなく、ありきたりで、有象無象、つまらない存在。  結城が允といる事で、学園で色んな人間から囁かれた言葉だ。 (そんな事は分かっている。ベータがアルファと肩を並べるのすら、間違っているのだと。それでも……)  それでも周囲がなんと言おうとも、結城は允と同じ時を歩きたかった。ベータでもアルファを支える事ができるのだと、周囲に誇示したかった。だけど周りがそれを認めようとしない。  もし、自分がベータではなく、アルファやオメガなら何かが変わったのだろうか。 「すまない。バース性だから付き合ったり結婚したり、という考えが俺には合わないみたいだ」 「だけどベータである以上、私たちはベータ同士で交際したり結婚するのが理想なんじゃないんですか? そうやって私たちは教育を受けたんだし」 「そう……だな。それが当たり前だよな。でも……」  俺は、と口にした途端、あの蜂蜜の香りが雑踏の中から強烈に感じてドクリと心臓が跳ねる。 「っ、おれ……はっ」 「三兎さん?」  ドクドクと血管の中の血液が、濁流となって全身を駆け巡る。呼吸が荒くなり、額から脂汗が浮かんでくる。そして脳裏には允の姿がよぎり、股間が痛い位に張り詰める。  允。允。みつる。  昨夜、結城に手を振って見送る姿を思い出し、トロリと後孔から何かが溢れ濡れる。  会いたい。会って、允の匂いをもっと感じたい。 「おっ、と」  激情に意識が呑まれ体がグラリと傾ぐが、膝が地面につく前に腕が強く引っ張られるのを感じた。 「待ってたよ、僕の運命の(オメガ)。君が目覚めるのを今や今かとずっと待っていた」 (允……?)  結城の意識が漆黒の闇に覆い尽くされていく。甘く、ドロリとした花の匂いに全てを包まれ、結城の口元には安堵の笑みが滲んでいた── + 「おっ、と」  グラリと倒れそうになる結城の腕を掴み、その勢いのままに自分の胸へと引き寄せる。結城の首元からぶわりと清涼な香りが湧き、とうとうその時が来たのだと允は笑みを浮かべた。 「あ、あの……」  栗色の髪をふわりとなびかせた若い女性が、おろおろと結城と允へ目線を逡巡させている。安っぽいピンクのコートを着た女。これが結城にアプローチしてきた人物なのだろうと、允は直感的に悟った。  自分の容姿がアルファの中でも上等の部類に入ってるのは知っている允は、あれだけ結城にアピールをしていたにも拘らず、自分へと媚びた眼差しで見てくる女に侮蔑の視線を投げる。  結局バース性が何だろうと、女という存在は見た目やステータスの高い男に靡く。結城は自分という内面を認めてくれたのに、と女のおかげで結城の想いが上昇していった。 「結城は僕が看るから君は帰ればいい。どっちみち君はうちの会社を解雇となるから、すぐにでも求職活動しないと大変かもしれないよ」 「あの、それどういう意味ですか? それにうちの会社って……」  察しの悪い女だ、と允は辟易する。大きな会社ともなると、末端の教育が行き届かないのは仕方ないかもしれないが、流石にこれはないだろう。  思わず落胆の溜息が零れる。 「僕は秋槻允。君の会社の社長の弟で、もうじき副社長として就任する。どっちにしても月曜日には解雇通告される君には関係ない話になるだろうけど」 「意味が分かりませんっ。なぜ私が解雇されないといけないんですか!?」  綺麗に整えただろう女の眉が怒りに逆立つ。そうする間にも結城のフェロモンは濃度を増し、周囲のアルファが目の色を変えてこちらを注視しているのを感じる。  まずいな、と允は眉をしかめ苛立ちを隠さずに口を開く。 「なぜ、どうして。君は自分が問えば男が何でも答えると思っているのか? だとしたら、その認識はあらためた方がいい。結城のフェロモンが漏れ出して、周りのアルファが反応しているんだ。君の耳障りな声をこれ以上聞きたくない」  允はそう冷たい言い放ち、結城を抱き上げると自宅へと踵を返す。頬を紅潮させ息を乱す結城のフェロモンに充てられ、この場で襲う前に帰りたい。  他人に結城の蕩けて可愛い姿を見られたくないし、愛するなら落ち着いた場所の方が結城にもいいだろう。 「まっ……」 「会社をクビになるだけでなく、社会的に抹消されたいのか? 余り秋槻の力を舐めないでもらえるかな。君如き一般のベータなんて、すぐにでも消すなんて造作もないんだよ」  アルファの威圧と共に最後通牒を与えると、女はひっ、と息を飲み、すぐさま逃げるように駅へと駆け出した。允は無駄な時間を取られたと深い溜息を漏らす。  一刻も早くここから立ち去らなければ。  允は結城を抱えたままだというのに軽い足取りで、自宅へと急ぐ事にしたのだった。
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