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思惑のミルクティ
金曜日の夜。
駅の繁華街から少し入った場所にある三階建てのビルの一階にあるカフェはナチュラルテイストでまとめられ、日中は女性客で混み合う日もあるらしい。
しかし、閉店後の店内には客である自分と、オーナー店長である彼の二人が、カウンターに向かい合わせで穏やかな空気を作っている。
ほわほわと幸せを具現化したようなベージュ色のミルクティに、トロリとした琥珀色の蜂蜜をハニーディッパーでひと匙。ふわりと嗅ぎ慣れた蜂蜜の香りが鼻先に届く。
食事が美味しいと口コミサイトでも書かれていたが、彼女達の本当の目的は彼の容姿とバックグラウンドのが強いのでは、と思う。
180センチ以上ある長身に、端正な甘いマスク。客商売で培った柔和な笑みは、学生時代に比べると更に磨きがかかり、同じ男性でありながら魅力ある人物だと羨ましさを通り越して感嘆すら憶える。
彼──秋槻允は、アルファの上位名家『四神』がひとつ、白虎の秋槻家の次男でありながら、長男の|紘(ひろむ)の補助をしつつも普段はこのカフェ『Cafe Nid』の店長をやっている。
以前、秋槻の次男が遊んでていいのか、と尋ねた事がある。それについて。
『うん。ここが俺の目的に必要って父と兄に言ったら、逆に完遂するまでは二足のわらじを履けって言われちゃってね』
カフェ開店当初、現在のような人気店ではなく閑古鳥が鳴いてそうなここで、彼は自分にそう言ったのだ。
『目的?』
『そう。いつか結城にも分かるから』
彼は結城──ベータ名家であり、秋槻の傍流のひとつ三兎結城へと、日課のように飲みなれた甘やかな花の匂い立つミルクティを差し出した。
高校一年の秋。夕暮れの生徒会室。
彼が結城の為に淹れてくれたこのミルクティを飲んだ日の事を回想する──
允との付き合いは高校よりももっと前。小学校時代にまで遡る。
ベータ上流階級『禅林』の三兎家は、秋槻の家から生まれたベータの子供が、その立場から秋槻家を支える為にできた家系である。そういった傍流が『四神』それぞれに存在し、三兎家もそのひとつだ。
その経緯で、代々三兎家は秋槻家の補佐をする立場となり、結城も将来、秋槻家の長男である紘と次男の允を支える為に育てられた。
結城が秋槻兄弟と初めて顔を合わせたのは、結城と允が小学校入学してすぐの事だった。
『はじめまして、僕は秋槻紘だよ。今年小学校六年生になったから、君とは一年位しか一緒に居れないけど、何か困った事があったら相談して』
堂々とした佇まいは最高学年だけというだけでなく、まだバース性すら判定できていないにも拘らず、紘にはアルファの人を導く容姿と雰囲気を持っていた。
『僕は秋槻允。結城とは隣のクラスだよね』
『うん……じゃなくて、はい。入学式で、生徒代表で答辞されてた……ましたよね』
『結城、僕らと一緒の時には砕けた言葉でいいから。ね?』
『う……』
母親が海外の人だからか、ふわりとした髪は飴色で、笑みで細めた双眸は真夏の緑を思わせる色をしていて、そんな彼がくすくすと笑うものだから、結城は子供ながら恥ずかしさで言葉を詰まらせる。
兄の紘とはまた違った雰囲気を持ちながらも、允も人を配下に置くのに躊躇いがないだろう雰囲気を持ち、将来、自分がこの二人を支える事ができるのだろうかと結城は不安になったものだ。
だが、子供というのは身分の垣根を取り払うのは早いものである。
紘とは年齢差もあって一定の距離感があった。逆に允とは一緒に居るのが当たり前のように、ふと気づけば結城の隣には允が居て、何をするのも一緒だった。
あれは、二人が小学校五年生の頃だったか。
『結城はバース性、どれだと思ってる?』
通い慣れた秋槻家のリビングでテスト勉強をしていると、唐突に允からそんな質問を投げかけられる。
一年時は結城と允は別のクラスだったものの、二年時からは裏から手が入ったように五年までずっと同じクラスだった。今にして思えば、結城と秋槻兄弟の通っていた学園は、秋槻の当主である兄弟の父とは弟である人物が経営しており、つねに結城にべったりだった允が叔父に懇願したのではないかと推測する。
『ほぼベータかなって思ってる。父さんも母さんもベータだし、この間授業でやってただろ? ベータ同士の夫婦にはベータが生まれる確率がほぼ100パーセントだって』
『ふうん。でも、もしも、結城はオメガって言われたら?』
『ないない。三兎でオメガが生まれたって話聞かないし』
『だから、もしもの話。もし、結城がオメガだったら、僕と結婚してくれる?』
『もし、オメガだったら別にいいけど……』
『やった! 約束だからね!』
『う、うん』
身を乗り出した允は目を輝かせ、表情は期待に満ちているのが分かる。
結城は、そんな奇跡なんてないから、と呆れつつも口を出しそうになったが、周囲の人間──偶然居合わせた秋槻夫妻と結城の父親は困惑を顔に浮かべるばかりだった。
大人達は、出会った当初から異様な執着を見せる允に何度も苦言を呈していた。普段は聞き分けもよく、年齢よりも大人びた思考を持つ允だったが、何故か結城に対しては傍に居ないと不安定になり、彼に近づく人間を排除する姿勢すら見せるようになっていた。
秋槻夫婦と三兎夫婦は秘かに会っては何度も話し合い、このままだと二人に良い影響を与えないと考え、中学からは結城を公立の学校に行かせようと決める。
物理的に距離を置けば、允も冷静になり、結城も他者との交流ができるだろう、と良ければと考えた末の決断だった。
三兎夫妻は結城に中学から公立への入学を伝え、それは允には秘密にするようにと言い含めた。
結城も養育されてる身で否とは言えず、小学部の卒業まで允に伝える事はなかった。
その事実を伝えたのは卒業をして少し長めの春休みが終わる数日前。直接伝えるのは辛くて、家の電話から直接結城が伝えたのだった。
最初は結城からの電話に明るい声で応えていた允だったが、結城が事実を淡々と話すにつれ沈んだ声へと変わり、最後は涙を含んだかのような湿った声をしていた。
結城は隠していた事の罪悪感から、何度も『ごめん』と繰り返した。
正直、允と離れるのは嫌だったものの、彼の時折見せる獲物を捕食しそうな鋭い眼差しが怖かった。
きっと允が結城に執着しているのは、ずっと一緒に居たせいだと両親や秋槻夫妻に諭されたのもあって、お互いの為にも一度離れた方がいいと判断したのは結城だった。
苦しいけど、つらいけど、将来秋槻の上に立つ允には必要だと、結城は涙ながら何度も自分に言い聞かせ、断腸の思いで允と離れる事にしたのだった。
逆に允は突然結城と切り離された事に納得できず、丁度訪れた反抗期と重なり、両親だけでなく、兄の紘も、三兎の両親すらも恨み、手に負えない状態だった。
この頃、允はアルファだと判断されたのもあり、急激に身長も伸び年齢よりも大人びた彼は夜な夜な街へと出ては、結城に会えない鬱憤を晴らすかのように怠惰な時間を過ごしていた。
一応、家の事を伏せて遊び回っていたものの、上級アルファ独特の、人を従わせる王者の風格を持った允は、夜の街ですぐに噂となって広がった。
中学三年になろうという早春のある夜、年齢を誤魔化して通っていた馴染みのバーで知り合ったのは、同じく『四神』がひとつ、寒川家の次男の玲司だった。
玲司は当時高校生二年生で、允からすればとても大人な雰囲気を持っていた。だから五つ上の紘と同じ年齢だと思っていたら、兄よりも年下という事実に驚いた記憶がある。
『そうですか。ずっと傍に居た人が急にいなくなるのは、辛い以外に言葉がありませんよね』
『それに、結城はベータだから、番う事もできないどころか、どこかの女に奪われてしまう。結城は僕のなのに、そんなの許されないのに、バースが僕と結城の間に障害となって邪魔をするんだ』
『でしたら、そのベータのユウキ君……でしたか、彼をオメガにすればいいのでは?』
兄ですらも、こんなドロドロな本心を言葉にする事なんてできないのに、玲司はただただ聞き役に徹して、時折グラスの琥珀の液体を喉に流す。そんな姿ですらも人を魅了するとかズルイ、と允は内心歯噛みする。
しかし、彼のもたらした言葉が耳に届く。もしかして自分に都合の良い幻聴なのだろうか。
『え……ベータをオメガに? そ、そんなの可能……というか、嘘を吹聴してないよね』
『あながち嘘でもないんですけどね。ただ、まだ実験段階なので、確約はできないという話で』
玲司が苦笑するのを、允は続きを早くと急かす。
寒川家が医療関係に特化した家格なのは知っていた。若き現当主は普段は経済学部の大学生をしながら、医療系の会社を「K・Fコーポレーション」の代表取締役をこなす多忙な人物であるのは、同じ『四神』の両親から話を聞かされていた。
『うちの系列に病院があるのはご存知だと思いますが、その中にバース性を研究している施設がありましてね。そこで別因子のあるバース性を変質させる研究をしているんです。つまりは、ベータであろうと、その遺伝子にアルファやオメガが混在している事実が確認できれば、どちらかに変える事も可能だそうですよ』
『ベータであってもアルファやオメガに……』
『ええ。その第一段階でアルファに検体となってもらい、変質の為の薬品を生成したいそうで。それをあなたが求めてるユウキ君に与えてみては如何でしょう。彼がオメガになれば成功。もしならなかったら、その時はあなたが思うままに行動すればいい。どちらにしてもあなたがイエスと首肯しなければ始まらない話ですけどね』
生まれ持ったバースを変える。
夢のようで、悪夢のような話だ。しかし、結城をオメガに変えてしまえば、彼は自分の番になる事も可能だ。番はどちらかが死なない限りは解除する事は不可能だ。そして自分は結城と番になったら、別のオメガになびく事もない。つまりは結城は允の生涯の伴侶となり、彼との間に子供を成す事もできる。
自分の両親も三兎の両親も、結城がオメガになれば、允との結婚を認めざるを得ないだろう。どっちにしろ、結城と引き離すつもりなら、彼を連れて秋槻の戸籍から抜けて二人で幸せになればいいのだ。
『……分かった。玲司さん、僕にその研究者を紹介してくれる?』
小さく頷き真っ直ぐに玲司を見つめる少年の顔は、獲物を狙う獰猛なアルファの雄の相貌をしていた。
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