カルテ

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カルテ

聖聖(ひじりさとる)さん、診察の時間ですよ。」 小野羽純は入院患者の定例診察の為、聖聖(ひじりさとる)の病室を訪れた。聖聖(ひじりさとる)は高校時代の恩師であり、羽純とは生徒と先生の関係だった。今では立場が逆転し、羽純が先生と呼ばれる立場になっている。 「いつも、ありがとうね、角田さん。」 「先生、それは旧姓ですよ。いつも言っているでしょ?」 「また間違えてしまったね、すまない。」 羽純が医者を目指すことができたのは、高校時代に先生の励ましの言葉をもらったおかげであり今でも感謝の念を抱いている。 「別に構わないですけどね。先生が元気になってくれれば。」 「いやいや私はもうダメだからな。静かに寿命を迎えるのを待つだけだよ。」 「そんな寂しいこと言わないでくださいよ。長生きしてもらわないと。」 羽純は弱音を吐く先生を見て少し悲しくなった。それが顔に出たのだろう。先生は羽純に優しい視線を送る。 「まあ、死に急ぐ気もないから安心しなさい。」 「信じていますよ、先生・・・」 羽純は微笑を浮かべ、聖聖(ひじりさとる)も穏やかな表情をしている。 先生の病は少しずつ進行しているが、先生が少しでも穏やかな余生を送ってくれれば嬉しいと羽純は思っていた。 診察を終えた帰り際、羽純は手に取ったカルテを見て思い出す。 「そういえば!」 羽純の声を聞き、目を閉じかけていた聖聖(ひじりさとる)が目を開き、羽純を見る。 「先生?若い頃にも、この病院でお世話になったことあるのですね?」 「・・・何のことだい?」 羽純はその言葉に妙な違和感を感じた。 「ええ?先生のカルテを見ていたら、先生が20代前半の頃にこの病院で治療を受けたという記録を見つけましてね。それで・・・」 「角田さん!その話はやめたまえ!」 病人であるとは思えないような力強い口調で、聖聖(ひじりさとる)は叫び、羽純は心臓が止まるような思いがした。 危うく先生より先にあの世へ旅立つところであった。高校時代も穏やかだった先生が突然声を荒げた為、羽純は何か悪いことをしてしまったのかと焦る。 「すまない・・・大きい声をあげてしまった。」 「いえ・・・聞いちゃいけない話でした?」 「うん、いや、何と言うか・・・」 先生の歯切れが非常に悪く、羽純はますます気になってしまう。 「そんな昔のことは忘れてしまったよ。もう寝るから。」 先生はそう言うと、ベッドに潜ってしまった。 「・・・ゆっくり休んでくださいね。」 羽純は非常に気になったが、先生の知られたくないことを根掘り葉掘り聞くのは良くないと思い仕事に戻ることにした。 お昼休憩の時間になっても羽純の心は晴れなかった。理由は分からないが、先生を怒らせるようなことをしてしまったと後悔の念が強かったからだ。 「小野先生?何を落ち込んでいるの?」 落ち込んでいる羽純の姿を見た老齢の看護師が声をかけてきた。この老齢の看護師は性格が悪いことで有名だ。羽純は、こんな最悪な気分の時に相手にしたくないと思い席を立つ。 「いえ、ちょっと・・・」 しかし、その老齢の看護師は無理やり羽純の腕を掴み席に座らせた。そして尋ねてもいないのに勝手に話し出す。 「小野先生、あの(ひじり)さんと知り合いなの?」 「ええ、高校時代の恩師でして。」 「あらそうなの・・・なるほどねぇ。」 恩師という言葉を聞いて老齢の看護師は嫌な笑みを浮かべて一人納得した様子で呟いた。 「もう行きますね。」 羽純が再度席を立とうとするが、老齢の看護師には関係がないらしい。 「ねえねえ先生?さっき、なんで(ひじり)さんが、声を荒げたか教えてあげようか?」 「あなたに分かるんですか?」 心底嫌そうに羽純は聞き返した。その言葉には、というニュアンスを含んだつもりだったが、それも伝わっていないらしい。 「ええ、わたしは当時、あの方の担当の看護師でしたから。」 病室のベッドで聖聖(ひじりさとる)は思い出していた。 「あの話は・・・できれば知られてくないな。」 聖聖(ひじりさとる)は当時の記憶を呼び起こしていた。 以前、別のお話の中で、私は就職氷河期で就職ができず教師になったと自己紹介したのだが、本当は違うのだ。正確には、私は就職できなかった訳ではない。教師の道を選ぶ前に、とある会社の社員として働いていた時期があるのだ。あまりに恥ずかしい出来事があって嘘をついたのだ。 全ては社会人を始めたあの日が原因だ。
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