一.

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一.

天明(てんめい)五年、秋の夕暮れ、江戸は日本橋のとある武家屋敷。 安藤彦衛門(あんどうひこえもん)と書かれた表札の掛かった門前で、神田甲斎(かんだこうさい)と名乗った、あまり長くは無い総髪(そうはつ)を後ろで()った一人の男が、女中の案内で客間へと入って行った。 歳の頃は三十後半といったところであろうか。 大柄で鋭い目つきに似合わず、所作(しょさ)は機敏にして優雅、足音一つ立てずに廊下を進み、桜の花弁が舞い落ちるかの如き流麗(りゅうれい)さで甲斎は座布団の上に腰を下ろした。 その美しさに思わず女中が下がるのも忘れて一瞬見惚れ、慌てて足早に立ち去る中を、甲斎は正面の掛け軸の滝を真っ直ぐに見据え微動だにせぬまま待っていたが、 「やぁ、久し振りだね。急にどうした?」 言いながら現れたやや上級の武士と見られる男の声に、 「久方振りだな、彦衛門。昨今不穏な世の中で、お前の方はどうしているのかとちょっと気になってな。夕食でもとりながらゆっくり話でもと、長目屋(ながめや)に言って懐石を用意させてあるのだよ。あと半刻(はんこく)もすれば届くはずだ」 (わず)かに表情を緩ませ答えた。
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