爪痕

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*** 湿気と熱のこもる夜風を肌にまとわりつかせ、それを払いもせずにひたすら歩き続ける。 息を吸う度にどんどん重くなっていく胸の中に比べたら、湿度の高さなんて気にもならない。一歩進むたび、まるで深い水の底にぶくぶくと沈んでいくようで、薄い膜に覆われた視界の向こう側は、水底から水面を見上げているみたいだった。 久方ぶりに自宅でダイニングテーブルを挟み、向かい合わせで座る夫に病気のことを告げた。夫はしばらく黙った後、おもむろにカバンを開け中から一枚の紙を取り出しテーブルの上に置いた。 「離婚してくれ」 それが彼の答えだった。 悔しさ、悲しさ、憎しみ、そして絶望。 色々な黒い感情が一気に腹の底から沸き上がり、あまりに強い感情の渦がマグマのように噴き出しかける。それを押さえ付けた反動なのか、喉元から吐き気が込み上げた。 何も考えられず、夫と離婚届けをダイニングに置き去りに、私は家を飛び出した。行くあてもなくただ目の前の道を進む。 きっと家に戻っても既に夫はいないだろう。彼はもう用が済んだとばかりにに戻っているだろうから。 そんな夫の気配が色濃く残るあの家に、今はまだ帰りたくは無かった。 くらりと眩暈を感じて、ふらつく足ですぐ近くの公園に入り、近くのベンチに腰を下ろした。 頭の奥が痺れたようにジンジンとして、何も考えられない。否、考えたくない。 私は脱力してベンチの背もたれに寄りかかり、ぎゅっと固く目を閉じた。 どれくらいそうしていたのだろう。 「カーン、ガラガラ」という聞こえてきた。あれは多分空き缶転がる音。 (こんな夜中にいったい……) 音の方を見ると、公園の入り口付近から若い男の子がこちらへやってくる。 (これだから最近の若い子は……近所迷惑考えなさいよ) 頭の中で文句を言うが、わざわざ彼を捕まえて説教しようとは思えない。いくら私が三十路のおばさんだからって、一応女性であることに変わりない。人通りの少ない深夜の公園で、男性に襲われたら勝てるわけないだろう。 彼がこちらに来る前にベンチから立ち上がってこの場を去ろうと思ったけれど、足に力が入らなかった。 カクンと膝が抜け、ベンチの前にしゃがみこんだその時――― 「まったくもう、どこいったんだ⁉……ぅわっ、」 空き缶を追ってきた若者が足を止めた。きっと私に気が付いたのだろう。 「どうかしたんっすか?具合でも―――」 伺うように掛けられた声に、ゆっくりと顔を上げた。
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