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陽炎
側溝の網蓋の下に、小さく丸いものが散らばっている。
自動販売機の灯りに照らされて鈍く光るそれらを、私はいったいどれくらいの時間眺めているのだろうか―――
夫から離婚を突き付けられたあの夜。
家に帰ると、思った通り夫の姿は無かった。
いつもと何も変わらない風景。夫がいないのはもう日常と化している。
けれど、ダイニングテーブルに残された口をつけた形跡のない二つのグラス。その間に広げられた離婚届けが、容赦なく現実を突きつけてきた。
あれから三日。
夫とのこと。病気のこと。
これから私は一体どうするべきなのか。どうしたらいいのか。どうしたいのか。
頭が麻痺したようにぼんやりとして、思考に霧がかかって何も考えられない。
パートの仕事に行っている時はまだ良い。ただひたすら与えられた仕事に打ち込めば、余計なことを考えずに済む。
けれど、パートから家に帰ったあと。一人きりの部屋にいると、押さえ付けていた蓋が外れ、どうしようもないほど次から次へと感情が波のように押し寄せてくる。ともすると暴れ叫び出しそうになる。
どこかに走って逃げたくなる衝動を堪え切れず、とにかくこの空虚な部屋に一人でいたくなくて、私はふらふらと夏の夜に彷徨い出でてしまうのだ。
また熱中症になってはいけないと、公園の自販機で飲み物を買おうと思った。
三日前とは違って、きちんと財布の入ったかばんも持っている。
もしまたあの時の“おばあちゃん子くん”に出会ったら、貰った飲み物の代金を返したいとも思っていた。
自販機の前に立ち財布を開けた瞬間、左薬指に自販機の光が反射した。
衝動的に指輪を抜き取り財布もろとも地面に叩きつける。口から悲鳴のような声が飛び出した。自分でも何を言ったか分からない。
カラカラーンと、金属と金属がぶつかる音がした音で、ハッと我に返った。
「バカみたい………」
足元に転がった小銭を拾おうと手を伸ばしたその横に、ポタリと丸い染みが出来る。視界が陽炎のように揺らいだ。
関を切ったかのように溢れ出す涙。口元に手を当てて嗚咽を必死に噛み殺す。
(結婚指輪、もう必要ないじゃない…………)
マンションの知り合いからの不躾な視線。パート先での無用な詮索。
それらを避ける為だけに、左薬指に収まり続ける指輪。
それに気付いたら無性に虚しくなった。
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