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幻影
検査入院を経て、病気の詳しい結果が出た。
担当医から『手術が必要だ』と説明を受けた。
いよいよ自分だけではどうにもならなくなって、私は実家の姉に連絡をした。
病気のこと夫のこと、すべてを話し終えた私に、姉は『そんな男はとっとと見切って、早くこっちへ戻ってきなさい』と言った。
ここから五百キロ離れた実家には、父と母が二人で住んでいて、定年を迎えた父は再雇用でまだ働いている。同じ市内住む姉は、父と母の様子を頻繁に伺ってくれていた。
実家に戻れば入院時の心配は要らないし、離婚のことは弁護士である自分の夫に相談したらいい。そう姉に言われ、嗚咽を堪えながら電話口で頷いた。
検査入院が終わってから今日まで、少しずつ身の回りの整理をし、ついさっき配送会社の人に持って行ってもらったばかり。
夫と暮らしていた時に使っていたものを持ち出すつもりはなく、『処分はお任せします』と一言添えて離婚届と結婚指輪を同封し、昼間の内に彼の会社に送っておいた。
封筒の宛名書きの隣に、きちんと赤字で【離婚届在中】と記入しておいたので、きちんと彼の手に届くだろう。
玄関にポツンと置かれたスーツケースを横目に、靴を履いて外に出た。最後の散歩だ。
日没直後の薄闇とアスファルトに籠った熱気に包まれた道を、物思いに沈みながら歩いていた。
いつも行くスーパー、パートに通う道、駅前のカフェ―――
五年を過ごした街をゆっくりと歩いて行く。
公園に着くと、夏の終わりを惜しむように鳴く蝉の声がどこからともなく聞こえていた。
(こどもが出来たらここで遊ばせるつもりだったのにな……)
せんないことが頭を過る。
夫は離婚届を置いていってから、何の連絡もない。
わずか五年ながらも伴侶だった女が病気だと知ったら、少しくらい気に掛けるかもしれないと思ったが、もう微塵も関心がないようだ。
夏の終わりは、女の終わり。
もうきっと誰からも愛されることはない。
"死"を前にしたら些細なことのはずなのに、どうして私はこんなにも“女”であることに拘るのだろう。
ああ、だから蝉は鳴くのか。
終わる命を惜しんでいるのではない。
次の命へ繋ぐため、鳴くだけ鳴いて我が身を燃やし尽くす。
それはもしかしたら、生きること以上に意味があることなのかもしれない。
(何も残せず誰からも愛されない。私の体は何のためにあるんだろう……)
“不完全”になる恐怖と悲しみが心を襲う。
胸の奥底から込み上げる言いようもない痛みに、躯をぎゅっと抱きしめてその場にしゃがみ込んだ。
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