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0。胡蝶の夢
「都市は東から西に向かって発展するみたいですよ」
「何それ。いずれ銀座もゴーストタウンってこと?」
あはは、と茶化しているのは、都心のバー「胡蝶の夢」を営むパーメオだ。
剥き出しの配管と安っぽい蛍光灯の下に、客は私一人だけ。いずれも何もここだけ既にゴースト化してるように見えなくもない。
私がこんなインチキくさい胡蝶の夢に吸い込まれてしまったのは、きっと連日の熱帯夜のせいだ。
パーメオとはここの美しい店主の通り名で「猫姉さん」という意味らしい。
タイシルクであつらえた黄色いスリップドレス、深く開いた胸元には蝶のタトゥーが見え隠れする。肩からはスラリとしなやかな腕が伸び、その先端の赤い爪が長いキセルを捕らえた。ネイルと同色の唇から吐かれた紫煙の行き先をぼんやり追ってしまうのは、動物的本能だろうか。
「まあ、客が来ない言い訳にはなるかしらねえ」
「ほんとうですって、そう言ってましたもん」
「だからロクな男じゃないっつってんのにさ、たいした信用だわね」
「だって、」
だって谷さんは読書家で、私の知る中で一番物知りな人。だから彼が言うことには一目置いている。
ただそこんとこの個人的な感覚をパーメオにいくら説明しても酷評ばかり。もういいや、と話題を逸らす。
「有名な哲学者の言葉らしいんです。知る人ぞ知るみたいな? 私の故郷だって、宅地は西に西に広がって。東区なんて置いてけぼりですよ、西側は郡部の山肌まで削り取ってるくせに。
あ。ほらほら都心って昔は丸の内だったんですよね? 丸の内から新宿へ、東から西へ核が移動しているわけだし」
パーメオは無言でカウンターを抜け出すと、私の隣の椅子に腰掛けた。
別に構わない。今夜はもう客の来る気配もないし、誰だって仕事をする気になれないって。
店主自らタンブラーにジンを注ぎ、ライムを絞る。異国の人ってだけで所作が意味深に見えるものだ。最後の一滴が時間をかけてポタリと落ちた。
「アタシの故郷は違うわよ?」
「それは屁理屈でしょう? 私が言ってるのは都市の話。だったらパーメオの故郷が『都市』じゃないってことなんですよ」
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