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気分ではなかったけれど、アタシは着ているシャツを大きく捲り上げた。
警告はしたのだ。厄介なゴミを持ち帰ったと今ごろ後悔しても遅い。胸の谷間に位置する赤と青、二色の痣が谷サンの視界に入ったはず。
「ねえ、先に谷さんが本名を教えてよ。もちろんフルネームで」
他人に名前を聞くならまず自分から名乗れって寸法。アタシは紛い物の乳房を見せつけ首を傾げて、はにかんだ。哀れな道化にはこれで充分だろう。本名を叫びながら飛びついてくる輩もいる、というか、いた。
□
ところが目の前の男は誘いに乗ってこない。
「タトゥー……じゃねーな、痣なのか? こんなリアルな形の痣には、
……タトゥー以上の意思を感じるな、呪術的な」
というか、このアタシのアピールが全く通じてないとは、もしや、ま、ま、真面目か!
「しかもこの蝶の翅は、雌雄モザイクだ。へえ」
虫取り網を担いだ少年か? 昆虫綱チョウ目フェチか? 成人男性の抱く関心がそんなことでいったい大丈夫なのか?
アタシも本気じゃなかったとはいえ、反応を明後日の方角に向けられると、ねえ。
「自信失くすわ」
「なぜ」
「もういい。だったらどうしてアタシなんか拾ったのよ」
恨み節を溢すついでに、そうだ、この朴念仁を綺麗な心で綺麗な街、を謳う老舗ボランティアに推薦してやろうか。
朴念仁?
ふふ……あまりにぴったりな名前じゃないか。しばらくアンタを朴念仁と呼ぼう。
ってアタシもたまには良いこと言うわね。
そそくさとシャツを整え胡蝶を仕舞い込んで、…
ただし。
朴サン?
「意思」の件は褒めてあげる。
この痣の主は胡蝶。アタシ以上の意思を持ち、アタシを制御する。実際「呪術的」かもしれない。アタシはこの痣を生かすだけの理由でヒトの魂を食べている。
剥き出しの欲動に理由はないし、だから自制など効かない。朴氏の本名を知るやいなや、魂をいただいただろう。
難を逃れた男は呑気に本を撫でているけど。
世捨て人風情で、掴みどころがなさ過ぎ、ヒトミがこんなんのドコに惹かれたのか見当もつかない。
でもそんなことより、ほっとしている自分に気づいて驚いた。
このまま胡蝶が起きなきゃいいって、何だこれ。本名なんて後でいいとか、生温かい空気にもやもや包まれて、それでいて悪くない気がしてる。
ああ、考えるのが面倒な時は全部熱帯夜のせいにすればいい。
ヒトミはそんな女だった。
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