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1.
一陣の風が開いた扉から吹き抜けた。
屈強な男たちの鋭い眼光が、一瞬剣呑に細められた。刺すような眼差しが、扉を開いた男に注がれる。
男はゴツリと重い靴音を鳴らしてカウンターまで進み、煩わしげに目深く被っていたフードを脱いだ。
はらりと現れた髪は闇を飲み込む漆黒。鋭利な瞳は冷たい水底を湛えて青く、冴え冴えとした横顔が凛々しい。
男は席に着くと古く傷だらけのカウンターに、カツリと硬貨を置いた。
「濁り酒を」
低くも通りの良い声が注文すると、カウンターの向かいにいた店主が無言で動き出して酒を供した。
男は小さなグラスに入れられた乳白色の酒を一口含み、心持ち肩から力を抜いた。
その瞬間を待ち構えていたように、周囲の男たちの意識が男に集まる。
「もしかして……ラウか?」
一人の男が、意を決して酒を傾ける男に声をかける。
男は視線を上げ、近付いて来た男に鷹揚に頷いた。ただ頭には少し、疑問符が浮かんでいた。
ラウ・ファン・アスは、この街ではそれなりに名の知られた剣士だ。いわゆる冒険者と呼ばれる彼は、一見優男にも見える外見とは裏腹に飛び抜けて腕が良い。難易度も危険度も高い依頼でも、一人でこなして完遂する技術と度量がある。
同業者が多く出入りするこの店は、ラウの行きつけの店でもある。まるで幽霊を見るように話しかけて来たこの男もまた同業者であり、顔見知りでもあった。その男に、何故わざわざ確認をされたのか。
首を捻るラウに、男は未だ半信半疑のまま口を開く。
「お前……氷雪の魔物退治に行って、死んだんじゃ、ないのか……?」
ゴクリと鳴ったのは、誰の喉だったのか。気が付けば店の大半の連中が、ラウと男の言動を注視していた。
ラウの研ぎ澄まされた刃のような冷たい瞳が、うっすらと細まる。繊細で丁寧に作り込まれた顔が、不機嫌に歪む。
「死んでない」
玲瓏な声が完全な否定を告げると、男たちがどっと歓声を上げた。
「じゃぁ、あの氷雪の魔物を倒したのか!?」
「すげぇな!」
「本当かよ!?」
「さすがだな!!」
爆発的に広がった男たちの野太い声に、ラウは片手にグラスを持ったままぎゅっと迷惑そうに目を瞑った。
喜ばれるのはやぶさかではないが、煩いのは困る。
ちびりと乳白色の舐めると、はじめに声をかけて来た男がラウの首根っこを掴んだ。
「あの氷雪の魔物とやり合って生きて帰るなんて、ほんとすげぇな、お前は!!」
体格に見合った大声が耳元で鳴って、ラウの繊細に整った顔が不機嫌に歪む。
「ただ死ななかっただけだ。無事には帰って来てない」
腹に一撃、しばらくは動けないほどの傷を受けた。その間に、ラウは魔物退治に失敗して死んだらしいと、不名誉な噂が流れてしまったのだ。
不覚だと、ラウの表情が悔しさに染まる。
男は隣に腰掛け、不貞腐れたように酒を舐めるラウにそれでも、とご機嫌に笑う。
「だがヤツは倒したんだろう?」
確認に、ラウはようやく口角を吊り上げた。
「あぁ」
はっきりとした肯定に、酒場の熱気が一気に上がった。
世界には時折、『氷雪の魔物』と呼ばれる化け物が出現することがある。雪のように白銀に輝き、薄い氷を纏ったような体毛を持つ化け物だ。熊よりも大きな巨体で敏捷に動き回り、毒を吐く牙と石さえも切り裂く鋭い爪で獲物を襲う。性質は極めて残忍であり、ヤツが現れた場所には草木すら爛れ落ちると言う。
どこで生まれどう現れるのか、その一切が不明な脅威の化け物である。
ラウの今回の依頼は、峠の街道付近に出現するそれを退治することだった。しばらく動けないほどの大きな怪我を負ったが、依頼は果たされた。これで峠の街道も安全に往来が出来るだろう。
誰もが手を焼いていた案件だっただけに、店内は同業者の喝采に沸いた。ラウも久しぶりの酒を体に味わわせ、声をかけてくる同業者に適当に応じた。
酒が入り、お祭り騒ぎがさらに騒がしくなった頃だった。その子どもは、ひょこりと、友人宅を訪れるような気軽さで店の中に入ってきた。酒が入り話に夢中になる男たちには、子どもの姿など目に入らない。どんちゃん騒ぎの男たちの間を、子どもはスルスルと縫って進む。
酒には酔えども初めから子どもの存在に気付いていたラウは、酒場には不似合いな子どもを興味深く眺めていた。だが自分の前でピタリと足を止めた子どもに目を瞬いた。
グラスを持つ手が止まり、水を湛えた青い瞳が子どもを捉える。
くるんとした大きな目が印象的な少年だった。年の頃は十四、五歳だろうか。透き通るような翠の瞳と、まだ丸みを残す頬が少年の幼さを物語る。だが存在を際立たせる銀の髪がけぶるようで、実際はもう少し上かもしれない。
どちらにせよ、少年が気軽に訪れるには場違いだ。
とは言え、咎める気もないラウは、そっと彼から視線を外してグラスを傾ける。
喉を通るアルコールは胃の腑に落ちて熱を上げるはずだが、先ほどから一向に体温が上がる気がしない。それでも酔いだけは回っているのか、手足の動きがひどく緩慢に思える。
少年が、くんっとラウの袖を引っ張った。
耳打ちするような動作に、ラウの体が無意識に傾ぐ。
「……なんだ?」
問いかけると、少年は花が綻ぶように微笑んだ。
「ようやく見つけました! 先日は助けていただいて、ありがとうございました!」
華奢で小柄な少年が発するには少々大きすぎる声が響いて、騒ついていた一部の連中の視線が集まる。
ラウは耳に近い位置での大声に柳眉を寄せ、集まった視線に典雅な顔を歪ませた。
「……なんの話だ?」
少年はラウの袖を両手で掴み、興奮と期待に満ちた眼差しを注ぐ。だがラウは、少年との面識に一切覚えがない。
低く問うと、少年は澄みきった翠の瞳をキラキラと輝かせた。
「氷雪の魔物から僕を助けてくれました! ありがとうございました!」
再びの大声に、ラウは難しく顔を歪めて首を傾げる。
氷雪の魔物と対峙した山中、周囲は緑とヤツが爛れ落とした木々しかなかった。何もなかったし、誰もいなかったはずだ。ラウはこの子どもに、今初めて出会った。
怪訝な表情を浮かべたラウに、少年は緩く首を振る。
「いいえ、貴方は僕を覚えています」
凛とした声が、はっきりと言い切った。
ラウは凪いだ青の瞳を瞬き、少年を見つめる。
宝石のように美しく澄み渡る翠と、けぶるような銀色だ。
(……)
恐怖を拭いきれないほど、残忍で獰猛な化け物を前にしていた。一瞬でも気を抜けば、頭と胴は簡単に切り離されてしまう。
そんな状況下で、ラウの視界を掠めたもの。
豊かな銀の毛並みを逆立て、低く哭くように唸っていた。火がついたような色なのに、怯えと哀しみと驚愕が混在した翠の目だった。
(……あの子狼……)
脳内の記憶をめくり、ラウはそれらしい映像に辿り着いた。
表情を変えたラウを見て、少年の幼さを残す顔が破顔する。
「そうです! あの時のおお……っふがっ……!?」
みなまで言おうとした少年の口元を、ラウは慌てて片手で塞いだ。
こんなところで人狼だと名乗られては堪らない。ヒト以外の他種族の存在は珍しくないが、世界は圧倒的にヒト族のものだ。存在の認知は当然でも、目の前に現れることはまだ稀だ。
冒険者が多いこんな酒場で存在を主張しては、彼の身が危険だ。周りはラウと少年のやり取りを、見ていないようでしっかりと見ている。
喋るなよ、と念を押し、ラウは頷いた彼の口元からゆっくりと手を離す。
「で、何しに来たんだ?」
嘆息し、ラウは子どもに問いかける。わざわざ礼を言うためにやって来たのか。
少年はいいえ、と首を振り、離れていったラウの手を両手で包んだ。
「やっぱり冷たいです。……貴方のケガは、氷雪の魔物の毒が抜けないと治りません」
手足が冷たく動きが鈍いのは、そのためだ。酒を飲んでも一向に体温が上がらないのも、腹に埋まった毒のせいだ。解毒が出来ないと、ケガはいつまでも完治しない。
彼の説明に、ラウは言葉を失うほど驚いた。自分では、ほぼ完治に近いと思っていた。体の動きが鈍いのは、療養中に体が鈍ったからだと思っていたのだ。
「僕は、恩返しに来ました。貴方に埋まる毒を、中和します」
少年はラウを探し出した理由を口にすると、ラウの唇にキスをした。
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