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アナウン王国の北の森には、悪魔が棲みついている。それは、王国の北の地域に住む人間であるならば誰でも知っている伝説だった。モンスター達がうようよする道を抜けなければいけないので危険は伴うが、湖に到達できれば悪魔と出会うことができる。
湖の中心に建てられた、苔むした悪魔の石像。
それに向かって祈りを捧げれば、悪魔が現れて願いを聞いてくれるのだという。ただし、相手は神様ではなく悪魔であることを忘れてはいけない。願いを叶えてもらうためには、必ず対価を“後払い”しなければならないのだ。
そう、つまりは――誰かの命を。
己の命を賭ける者もいるのだろうが、当然イリーナはそうではない。自分は貴族、アナウン王国有数の名家たる、マルティウス伯爵家のご令嬢だ。その自分が何故、こんなところで命を奪われなければいけない?己は未来永劫、陽のあたる場所で輝き続け、愚民たちを見下げながら幸せになるべき存在である。裁かれるべき人間は、当然他に存在している。
「此処だわ……!」
猟銃の訓練はしていたが、それでもモンスター達を振り払いながら森を突き進むのは苦労した。夜ではないので大半の夜行性のモンスターは眠っているが、昼のモンスターの中にも当然面倒な奴はいる。狩りに出かけたことはまだ数えるばかりの二十歳の娘、基本的には常に護衛を連れて歩いているイリーナが、自らの身を守るために戦う経験などあるはずもないのだ。
おかげで全身擦り傷だらけであるし、馬は途中でモンスターに捕まったので乗り捨てるハメになってしまった。せっかくの綺麗なドレスも、あちこち引っ掻かれてボロボロになってしまっている。どうして高貴な娘である自分がこのような目に、と思うと理不尽さで涙が滲んだ。
だが、幸いにして森に入って以来誰とも遭遇していないし、見窄らしい姿を見られる心配はない。そもそも、帰り道のことなど一切考えていないから問題ないのだ。
自分は悪魔に会いに来たのだから。
悪魔に、ある願いを叶えて貰いにきたのであるから。
――全ては、あのクソ女が来たせいよ。あの女のせいで、全部滅茶苦茶になったんだわ!
それから、シュレインも。
婚約者でありながら、自分を裏切った男に、既にイリーナはほとほと愛想が尽きていた。復讐しなければ気がすまない。そう、悪魔の生贄に捧げるべき存在は――二人いる。
「アナウンの悪魔よ、出ていらっしゃい!」
湖の浅瀬にじゃぶじゃぶと踏み込みながら、イリーナは叫んだ。
石像は苔にまみれ、雨風にさらされたせいかあちこち崩れて原型をとどめてはいない。だが、この場所で間違いないはずなのだ。圧倒的な力を持つ悪魔。命を捧げる覚悟さえあるのなら、どんな願い事であっても叶えてくれる存在であるはずなのである。
自分にはその資格があるはずだ。何故なら裏切られただけの自分は、何一つ悪いことなどしていないのだから。
「あたくしの名前は、イリーナ・マルティウス!ゴドウィン・マルティウス伯爵の娘よ!……復讐したい相手がいるの。あいつら……シュレイン・コーストと、アガサ・ナイラの命をあんたにあげるわ。その代わりあたくしの時間を戻して頂戴。あの日……アガサがあたくしの屋敷にやってくる、まさにその日に!」
薄汚れていた石像が、ぼんやりと黒く光始める。ああ、やはり伝説に間違いはなかったのだ。イリーナは唇の端を持ち上げた。
さあ、始めよう。愚かな者達に対する、復讐劇を。
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