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「……わかってはいたけれどね」
マルティウス家のご令嬢は、馬術も訓練も受けている。近年馬に乗って遠出をすることや狩りをすることが、男女問わず貴族の高尚な趣味として知られているからだ。
森の奥へと馬に乗って彼女が消えていくのを見ながら、シュレインはため息をついた。
「人を傷つけるって、辛いね。……本当に、自分が情けなくなる。何故こんなに酷い状況になるまで気づけなかったんだろう。もっと早く手を打てれば、彼女をたった一人屋敷の外へ放り出すことになんかならなかったのに」
「シュレイン様は、悪くありません。悪いのは、私が裏工作に失敗したからです」
そっと、シュレインの右手に添えられる少女の手。彼女は泣きそうな顔で首を振る。
「本当は、お嬢様に一言言いたかった……きっとお嬢様は、シュレイン様と私を恨んであの湖に行ってしまったのでしょう。そのようなことしないでほしい。シュレイン様がお嬢様を追い出すことを決めたのは、けしてお嬢様を嫌いになったからでもなければ、権力を奪おうとしたわけでもないのだと。だから、私はともかくシュレイン様に、そのような酷いことなどしないでほしい。何より、悪魔に力を借りることは、お嬢様にとっても危険を齎すことになりかねないからと……」
こんな時であっても、アガサはシュレインと、彼女にきつく当たってばかりだったイリーナのことばかり心配している。誰よりも優しい娘。誰より強い娘。シュレインは唇を噛み締めた。自分にもっと力があれば、彼女をこのような危険に晒すこともなく、辛い思いばかりさせることにもならなかったというのに。
ただ願ったのは、大切なものを守りたいということだけ。
それなのに何故、そんなたった一つの願いさえもたやすく叶わない世界であるのか。確かに貴族というものは厄介で、権力争いに巻き込まれることもあるし下の階級からの恨みを買うことも少なくない。思いがけないところの命の危険が転がっていることは、重々承知していたけれど。
「……泣き言ばかり、言ってはいられないね。イリーナに恨まれ、憎まれることを選んだのは他でもない俺達なんだから」
アガサの頭をそっと撫でて、シュレインは顔を上げた。時間がない。自分達には、やるべき仕事が残っている。
「準備しよう、アガサ。……恐らくこれが、最後の戦いだ」
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