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<2・失敗>
真っ暗な闇の中に沈む視界。不思議な浮遊感の中で、イリーナはくぐもった何者かの声を聞いていた。
『汝、時の逆行を望むのであるな?』
男なのか女なのか、子供なのか老人なのかもわからない奇妙な声。イリーナは心の中で、ええそうよ、と呟いた。何故だか声にしなくても伝わるという確信があったのだ。
『差し出す生贄は、シュレイン・コーストと、アガサ・ナイラの二人。間違いはないか』
――ええ、その二人よ。人を自分の手で殺すのは少し怖いけれど……忌々しいあの二人の命なら全く惜しくないもの。必ず殺して、その命を貴方に差し出すわ
『心得た。では、汝が我と契約を結んだこの日……この日の夜二十四時までに、その二人の命を奪え。さもなくば、契約違反とみなし、汝の命を貰い受けるぞ』
――わかったわ。必ず成し遂げて見せる。あたくしの、復讐を……!
そして、ゆっくりとイリーナは目を開いた。どうやら自分は、自宅の屋敷の鏡台の前でうとうとしていた、そういう設定になっているらしい。鏡に映る自分は、悪魔に頼った時の自分とは違ってちゃんとしたドレスを着ているし、髪もぼさぼさになっていない。僅かに、最後の時の自分よりも肌ツヤが良いように見える。本当に逆行に成功したのだろうか、とイリーナは卓上のカレンダーを見た。
間違いない。日付は、自分が望んだ通りのもの。悪魔と契約したその日より、三年以上も前に戻っている。
さらにもう一つ、気づいたこと。鏡でちらりと見えた、己の右肩辺りに、逆十字のような不思議な痣が刻まれているのである。逆行前には存在しなかった。これはきっと、悪魔と契約したものの証に違いないと確信する。
――やった!やったわ、あたくし本当に……時間を遡ったのよ!
伯爵令嬢という選ばれた立場でありながら、屋敷を身一つで追い出され、愛する人には婚約破棄されるという絶望的状況から。自分は悪魔の力で、この場所に戻ってきたのである。全ての栄光をあるべき者が手にするために。大嫌いな二人に復讐し、その命を悪魔に捧げるために。
「ふふふ、あはははは、あははははははははっ!最っ高じゃないの!今に見てなさいよ、クソどもめ!」
おっといけない、クソだなんてはしたない言葉を。思わず高笑いしてしまったが、誰かに聞かれてはいないだろうか。思わず廊下に出て、外の様子を見てしまうイリーナである。幸い、広い屋敷の廊下を通る人影はない。
同時に、高笑いしたり小躍りしたりしている場合ではないということに気づいた。自分は、あのアガサがメイドの面接でやって来る日まで戻して欲しいとお願いしたのである。つまり今日、あのみすぼらしい女が求人募集を見て、メイドを決めるための面接にやってくるのだ。こうしちゃいられない。とにかく父上に言って、面接官に自分も参加させてもらえるように頼み込まなければ!
――あのクソ女が来たせいで、あたくしの運命はブチ壊しになったんですもの。何がなんでも面接落として、我が家に入れないのが最優先よ。あ、またクソって言っちゃった、あたくしったら!おほほほほ!
火事場の馬鹿力、という言葉が世界のどこかにはあるらしい。思い立ったイリーナの行動力は、自分でも惚れ惚れするほどである。急ぎすぎて階段からすってんころりんするハメになったのは、まあなかったことにしてもらおうと思う。
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