第一章 旅立ちの讃岐うどん

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第一章 旅立ちの讃岐うどん

 忙しない時計の音が耳についた。  うっとうしく視界を覆う前髪を左手でどけて、顔を上げる。  いつの間にか九時を回っていた。  若手の職員たちとお喋りしていた同期の及川も、六時過ぎには帰ってしまったのでやけに静かだ。さすがに空腹を覚えた奏大(かなた)は、立ち上がって伸びをした。  今日は水曜日で、一応はノー残業デーだ。  そのせいか、いつもはまだ電気がついている部署も、ほとんどが灯りを消している。それでもフロアを見渡せば、いくつかの机の上では蛍光灯が白々と光っていた。  斜め前のデスクでひたすら指を動かしている先輩の塩沢を尻目に、コンビニへと向かう。鮭のおにぎりを手に取って賞味期限を確認したところで、今日が誕生日だということに気付いた。二十五歳にもなると、嬉しいというよりは正体不明の焦りすら感じる。  とはいえ、思い出した以上、スルーするのも寂しい。とりあえずデザートの棚にいき、ショートケーキを手に取った。  デスクに戻ると、さっきまで唸っていた塩沢の姿はなく、パソコンも片付いていた。真っ先に感じたのは、一人だけ残業していることへの不満よりも、これで心置きなく食事ができるという開放感だった。    誰にともなく手を合わせて、温めたおにぎりを頬張る。  コンビニのおにぎりには定番の昆布や梅から、焼肉やわさびマグロなど色々な種類があるが、やはり一番美味いのは鮭だ。  それも焼き鮭ではなく、フレーク鮭がいい。  パリパリの海苔につつまれた米の、ほんのりとした甘味にほどよい塩気、そこに鮭のはっきりしたしょっぱさが絶妙だ。 あっという間に食べ終えて、ショートケーキに手を伸ばす。 コンビニのスイーツなんて久しぶりだ。  白い生クリームと真っ赤な苺のコントラストが目にも鮮やかなケーキ。  見た目はまずまずといったところだが、しょせんはコンビニのスイーツ。あまり期待せずに頬張った。 「うまい」  予想外の味に思わずうなる。  ミルキーで口当たりの軽い生クリームに、卵の風味がするしっとりとしたスポンジ。そこにほんのりと薫るラムと甘酸っぱい苺。そこらのケーキ屋にも引けを取らない、中々のハイクオリティだ。  このところ、残業続きで夕食を抜くか菓子パンやカップラーメンばかり食べていたので、手の込んだスイーツがしみじみと美味しく思えた。  だが、ふいに、虚しさがこみ上げてくる。 真っ暗な職場で一人ぼっちの誕生日を迎え、コンビニのケーキに感動する。 いかにも寂しい光景ではないか。  同じ課で同期なのに、係が違うために鬼のような残業をする事もなく、他の若手職員たちと和気あいあいと働く及川の姿が頭をよぎる。  彼は先週、誕生日を同僚たちに祝われ、売店で買って来た菓子などをプレゼントされていた。別に菓子が欲しいわけではない。ただ、同僚たちと交流を深め、市役所職員であることを楽しむ余裕のある彼が羨ましかった。 引き換え自分はどうだ。  残業三昧で、同僚たちと交流するゆとりなど無い。  誰も自分の誕生日なんて知らないだろう。 (自分だって同僚たちの誕生日など知らないのだからお相子だが) 家に帰ったら這うようにしてベッドに入り、たまの休日も疲れないよう殆ど寝て過ごす。頭の中は常に一日の業務で溜まったモヤモヤと、明日からの業務への段取りや憂鬱で占められている。 なぜ誕生日すら忘れてしまうような生活をしているのだろう。  頑張って働いても、誰に褒められることもない。  それどころか、市民からは毎日のように文句を言われ、楽な仕事で税金を貰って暮らしていると非難される。サービス残業も多いし、給料だって安いというのに。  そもそも、市役所の仕事を選んだのは、安定しているし自宅から通えるというそれだけの理由で、仕事自体には大して思い入れもない。そんな職場にしがみ付いて、一体なにになるのか。 急に泣きたくなってきた。  フロアには他の課の職員がちらほら残っている。席は離れているものの、顔が全く認識できない程遠いわけではない。  いい年をして泣きべそを見られるのはいやだ。  慌てて目薬をさすふりをして鏡を確認する。そこには虚ろな目をした無表情な男が映っていた。 これはまずいかもしれない。  おおよそ若者らしさ、いや、人間らしさを廃した己の姿に焦りが沸いてくる。しかし、どうしたら今の生活を変えられるのか分からない。何を言ったところで、課せられた業務が無くなることはない。  無意味に思考を巡らしているうちに、ラインが着信を告げた。反射的にスマートフォンを手に取って画面を開く。  冬島玲人(ふゆしまれいと)からのメッセージだった――。  一瞬、高鳴った鼓動に気が付かないふりをしつつ、ラインを開く。 「誕生日おめでとう。今日くらい早く帰ってゆっくりしろよ」  絵文字も何もない文面でそう記されていた。 それだけの簡潔な言葉に、よ く分からない衝動がこみ上げてくる。  奏大はいつの間にかクリアファイル一杯になっていた未処理の請求書や回覧資料を机の端に退けると、猛然とパソコンを叩き始めた。  ものの十分ほどで書き上げたのは退職届だ。  それから更に一時間以上かけて溜まっていた請求書を全て処理すると、退職届を課長の机に置いて、まばらに明かりのついた岡山市役所を後にした。  立つ鳥跡を濁さず。  いや、急に仕事を辞めた時点で後は濁りまくりか。  大体、引継ぎや人員の補充の事も考えると、退職は三十日前には告げるべきだ。規定でも、十日前には申し出るようにとされている。それを、突然、届けだけ提出していなくなるなんて、いくらなんでも非常識だろう。  とはいえ、明日も職場で黙々と働くなんて出来そうになかった。もっと自分がしっくりと暮らせる場所、納得できる生活がほかにある気がする。  とにかく、人生の転機が来たのだ。    ここで行動を起こせば、今までより少しはマシな生活が送れる気がする。このチャンスを無駄にしてはいけない。病風が吹かないよう、歩きながら玲人にラインする。 「ありがとう。仕事、辞めてきた。しばらく旅に出る」  こんな意味不明な連絡がきたら、困惑するだろうか。  いや、あの怜悧な男が慌てるところなど思い浮かばない。酔っぱらっているなと鼻で笑っているくらいの方がしっくりくる。そんな事を考えているうちに家に着いた。 「ただいま」 「あぁ、お帰り。ジャーに炊き込みご飯が残ってるから食べてもいいわよ。  食べないなら電源切っておいて」  ちょうど、寝るところだったのだろう。  頭にタオルを巻いた母は、よれよれのパジャマ姿で大きな欠伸をした。 「あのさ、俺、仕事辞めてきた。ちょっと旅に出ようと思ってる」 「はぁ?何言ってるのよ、アンタ。明日も早いんでしょ。  冗談言ってないで、さっさと寝なさい」  母が盛大に呆れた顔をする。    階段に掛けられた母の小さな片足を、奏大は何となく見下ろした。  きっと早く寝たいのだろう。今にも母は階段を上がって行ってしまいそうだ。しかし、ここでちゃんと話をしないと、明日の朝はきっと大騒ぎになる。とにかく意識して深刻な表情を作り、ゆっくりと顔を上げた。 「本気だから。今夜にでも出る」 「はいはい。おやすみ」 「いなくなったって心配しなくていいよ。  職場にもちゃんと退職届は出してある」 「わかった、わかった。じゃあ、明日のお弁当はいらないわね。  もう寝るわよ」 「うん、おやすみ。暫くは戻らないけど、元気で」  うんざりした様子で会話を切ろうとする母に、何とかそれだけ伝えた。  どれほど通じているかは分からない。別れにふさわしいセンチメンタリズムは欠片もなかった。 「はいはい、お休み」  引き摺るような足音が遠ざかり、襖を閉める音が聞こえた。  あっさりしたものだ。それならそれでいいではないか。何も死に別れるわけではないのだ。  ゆっくりと深呼吸して、奏大も二階の自室に引き上げた。
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