第一章 旅立ちの讃岐うどん

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 母は自分の誕生日を忘れているようだった。  案外そんなものなのかもしれない。重たく考えないようにしつつ、いつ買ったのかも覚えていない大きなリュックサックに、タオルや最低限の着替えを詰める。自分名義の通帳やカード、それに実印も全てまとめて小さなファイルバッグに入れた。  荷物を詰めているうちになんだかワクワクしてきた。  訳もなく毎日が嫌になって、家出しようと計画を立てた小学生の頃を思い出す。あの時は空想で終わったが、今回は本当に旅に出るのだ。   旅には何が必要だろう。果物ナイフやハサミ、ロープやごみ袋なんかも持っていった方がいいだろうか。 いやいや、どこの秘境に冒険に行くつもりだ。 でも、もう帰ってこないかもしれない。 思い出の品くらいは持って行こうか。  そんな事を考えながら、こざっぱりとした部屋を漁った。 だが、これといって持っていきたい物は無かった。むしろ、荷物が重くなるのは嫌だった。 結局は、小さな懐中電灯やソーイングセット、タオルと衣類、引き出しに入っていたチョコレートや飴、それに軽くて保温性に優れた水筒とレインコートを入れるにとどまった。後は必要になったら調達すればいい。 厚手の黒いコートを着て、マフラーを巻き立ち上がる。 父はまだ帰っていないようだ。 昔からほとんど家にいない人だった。仕事なのか遊んでいるのか分かったものではない。母も眠っているので、家の中はすっかり静かだ。足音を立てないように慎重に階段を下りて、家を後にした。 駅に向かう最中に、玲人が待ち構えていた。 「よぉ。家出少年」 「なんだよそれ」 理知的で端正な顔立ちをおどけさせた玲人に、軽くしかめ面をしていると、 「これやるよ」と、軽い調子で手袋を渡された。見たところ新品だった。 「これ、どうしたんだ」 「誕生日プレゼントのつもりだった。でもこのタイミングだと選別だな」 「旅に出るって、本気にしたのか」 「お前、昔から嘘つくタイプじゃないし、真面目で大人しそうに見えて、実は突拍子もないことする奴だったし」 「だからって信じるか?普通」 呆れていると、玲人は切れ長の瞳を細めて涼しげに笑った。 「無責任って思われるかもしれないけど、いいんじゃね。旅も」 「そうか」 「で、何日くらい行くの?よく有給使えたな。仕事、忙しんだろ」 「大丈夫。退職届出してきた」 「おいおい、まじかよ」   流石に驚いたらしい。玲人が細いシルバーフレームの眼鏡がよく似合う整った顔を、珍しくポカンとする。 「本気なのか?いつまでだよ」 「わからない。とりあえずは春まで」 「郵便物とかは、とりあえず自宅に送っとけばいいのか」 来年の五月に玲人は結婚する。式の招待状の心配をしているのだろう。別に送っていらない。口から出かけた言葉を慌てて飲み込み、奏大は曖昧に頷いた。 「奏大、本当に行くのか?」 「あぁ」 「決意は堅いって感じだな」 「まぁ」 「そうかよ。好きにしたらいいんじゃね」 「そのつもりだ」 「ちぇっ。結婚式の余興かスピーチ、頼もうと思ってたのに」 「俺に何が出来るんだよ。スピーチも、玲人なら気の利いたことを言える友達が、ほかに大勢いるだろ」 小学校からの付き合いになるが、昔から友人の多い男だった。そんな彼がなぜ、自分と仲良くしているのか。奏大はいまだに分からない。 「お前はまた、そういう……。まぁ、いいや。がんばって旅して来いよ」 「意外だな。もっと怒ると思った」 「怒ってもいいのか」 素直に感想を呟いた瞬間、先ほどまで呆れたように笑っていた玲人が、急に怖い顔をした。 「やっぱり、怒るのか」 「当たり前だろ。お前は馬鹿か。このご時世に仕事辞めて、その後どうするつもりだよ」 「どうだろ。とりあえずは貯金でつなぐ、かな」 昔から趣味は読書と料理くらいで、物欲も多分少ない。お年玉も大学の入学祝も、それから給料も、その大半を貯金に回していた。おかげで貯金は二百万ちょっとある。贅沢をしなければ暫くは暮らしていけるはずだ。 「そんなもん二年ももたねぇよ。で、それからはどうする?」 「分からない」 「分からないじゃないだろ。生活保護の世話にでもなる気か。そんなんでいいのかよ。せっかく頑張って、正職員になったのに簡単に捨てやがって。老後はどうする」 「親みたいなこと言うんだな」 恋人みたいだな。と、本当は言いたかった。 整った顔立ちをじっと見つめる。彼にはもう、妻になる女性がいる。そう思うと胸の奥が鋭く痛んだ。鋭そうに見えて、じっと見上げる視線の熱にまるで気が付かなかった友人。こいつはそれでいい。  「やめろ。お前みたいにデカい子供がいるようなジジイじゃねぇよ」 「ははは」 大真面目に当然のことを言うから、つい笑ってしまった。 「まったく、笑い事じゃないだろう」 眦を吊り上げていた玲人ががっくりと肩を落とす。 諦めたような顔だった。 「そんな煮詰まってたならなんで、こう、もっと前に相談とかしねぇんだよ」 「されても困るだろ。俺が決めることだ」 「それはそうなんだけどさ」 玲人がふいと、そっぽを向く。たぶん拗ねているのだ。ただ、本人もそんな風に拗ねるのは筋が違う。そう思っているから何も言えないのだろう。 「それに俺も今日、煮詰まってるんだって気付いたから」 「くそっ、相変わらず極端だな。もういいよ。  ラインで良いから時々連絡くれ」 「ん」 「手袋、早速役に立ちそうだな」 「あぁ、ありがとう」 「どういたしまして」 それきり玲人は口を利かなかった。  辺りは静かで、暴走族のバイクの音も聞こえない。住宅街の明かりも消え、二人だけが世界に取り残されてしまったようだ。  もしここで、結婚なんてやめてくれと、本当は友達だなんて思っていなかったと、そう告げたら彼はどんな顔をするだろう。  玲人が引く自転車の、錆びかけた車輪の音が夜道に響いている。その賑やかな音を聞きながら、自分の向かう先を考えた。とりあえず、あまり寒くない所が良いと思った。   ほどなくして岡山駅に着いた。まだクリスマスには早い駅前はイルミネーションもなく、駅の窓だけが煌々と光っている。漏れてくる蛍光灯の明かりに照らされながら、玲人と向かい合う。年頃の男二人。なんとも絵にならない。 「じゃあな」 「うん、じゃあ」  あまりにもあっけなく、二人は駅の前で別れた。  玲人はさっさと自転車に跨り、一度も振り返ること無く遠ざかって行った。小学校の頃からの付き合いだというのに、奏大には彼が何を考えているのかまるで分らなかった。きっと向こうも同じ事を思っているに違いない。  何でいきなり旅なんだよ。それもこのご時世に定職を捨ててまで。  遠ざかっていく背中から、今にもそんな呆れた声が聞こえてくるような気がした。それでも心は変わらなかった。とにかく、ここではない何処かに行きたい。そんな思いに憑つかれるまま、奏大は改札を抜けた。
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