第一章 旅立ちの讃岐うどん

3/5
前へ
/28ページ
次へ
 時刻は丁度午前零時。  電光掲示板に出ているのは山陽線の倉敷行とマリンライナー高松行のみだ。どうせなら遠くに行きたい。数字の縁起がいいからと迷わずマリンライナー77号に決めて、ホームに降りる。  人気のないホームには、赤いライトが闇の中に潜む動物の目のように光っていた。やがて、銀色をした二両編成の列車が走り込んでくる。乗客は自分も含めて十人もいなかった。  列車が静かに無人のホームを抜け、夜の町へと走り出した。  恋にも仕事にも敗れた男の一人旅。これが若くて美しい女ならもっと物語にもなっただろうが、残念ながら惨めの一言に尽きる。  真っ暗な景色の中、時々思い出したように白い街灯が見える。  どの駅もホームは眩しいほど明るいのに、乗ってくる客はおらず、駅は一体誰の為に、真夜中も煌々と光っているのだろうなどと、下らない事を考えながら、ぼんやりと暗い車窓を眺めた。  このままどこまでも遠くへ行きたい。誰も自分の事を知らない小さな町で、ただ静かに暮らしたい。  来客の罵倒も、神経の擦り減るような細かい事務処理も、息を止めたくなるような苦い失恋も無い、そんな静かな世界に一人ひっそりと。  果たしてそれが許される場所があるのか。  そんな思いを打ち消して、見慣れぬ車窓の景色に思いを馳せる。  しばらくすると、転々と灯りの連なりが見えてきた。  夜の瀬戸大橋だ。橋の向こうは別世界。暗く波打つ海を眺めていると、途端に遠くまで来たのだという気がした。  次の坂出駅で電車を降りた。特に理由はない。  降りたものの、どうしようという事は何も考えていなかった。  とりあえず、真っ直ぐ前に向かって歩き出す。変哲もない住宅街を歩き、鎌田醤油の看板が掲げられた建物を通り過ぎると、商店街が見えてくる。屋根のあるアーケード通りで、道路には本街道と書かれていた。  折角だ。観光気分でやけ酒でも一杯ひっかけてみようかと思ったが、生憎どの店もシャッターが下りていた。夜中の一時では仕方ないと、諦めて真っ直ぐに進む。 シャッターにはミレーの『落穂拾い』やダビンチの『モナリザ』、葛飾北斎の『富嶽三十六景』などの有名な絵画や、名も知らない作者の現代アートが描かれている。ちょっとした美術館みたいだと楽しみながら歩いているうちに商店街を抜け、再び何の変哲もない住宅街に出た。  歩きながら、一体自分はどこへ向かっているのか考える。そのうちそれもどうでもよくなってきて、ひたすら道を真っ直ぐに進み続けた。道には相変わらず本街道と書かれていて、辿るうちに大きな公園に出た。 田尾坂公園―― このまま公園を真っ直ぐ行くか、T字路のどちらかに曲がるか。  しばらく考えて右に曲がると、県道三十三号に出た。  生憎、地理には暗く、この県道がどこに繋がっているかは分からない。とりあえずは真っ直ぐに道を辿る事にする。  普段なら無意味な行動だとすぐに引き返しただろう。だが、退職届を出してきた今、行かなければならない所は無く、明日の予定もなかった。そんな気安さから、兎に角、前に進むことだけを考える。  そのうちに、道の名前が丸亀街道に変わった。四国はお遍路の土地だ。きっとこの街道は昔のお遍路たちが通ってきた道なのだろう。そう思うと、その道を辿るという自分の行動に宿命めいたものを感じた。お遍路には道ならぬ故意に身を焦がした女性もいたのだろうか。  運動不足でどこまで歩けるのか心配だったが、足は少しも重くない。 歩きながら、放り出してきた仕事の事やこれからの事、玲人の結婚の事など、色々な事が頭をよぎる。  思えば就職してから、自分の人生を振り返る暇もなく、がむしゃらに三年が過ぎていた。こうして旅に出なければ、明日からも同じだ。仕事に追われる日々が死ぬまで続いていたのだろう。  想像すると急に胃の底が冷たくなった。石の上にも三年。そう思って耐えたが、今の職場にいて得られる物は何も無かったように思う。そろそろ次の道を探す頃だったのだ。  そう思う一方で、突然、仕事を放りだしてきたことへの罪悪感が募っていく。人事は余程の事が無ければ、年度途中での異動を認めない。残されたメンバーがしばらく自分の穴埋めに追われるのが目に見えるようで、それだけが心残りと言えば心残りだった。  橋が見えてきた。蓬莱橋と書いてある。蓬莱とは確か、仙人の住む土地だっただろうか。別の世界を探そうとしている自分に、まさにぴったりの橋だ。  真っ直ぐに橋を渡ると「骨付鳥」の看板が見えてきた。  あぁ、四国に来たのだ。そう思うと同時に、急に空腹を覚えた。こんなことなら、母の炊き込みご飯を食べてから出てこればよかった。  周囲を見渡したが、深夜なので店は何処も閉まっている。コンビニもない。食べられないとなると余計に腹が減ってくる。何とか深夜営業をしている店を探せないものかと思っていると、チャルメラが聞こえてきた。  温かな湯気を立てるラーメンを思い浮かべ、ますます空腹が酷くなる。奏大は誘われるように、音の方に足を向けた。  夜中どこからかやってくるラーメン屋台。  その響には何かしらロマンがある。玲人に言わせると、そんなもん外で真夜中に食うから美味いだけで、味は普通だし衛生的でもないし、食いたいとも思わないそうだが(夢の無い男だ)、奏大は子供の頃から屋台ラーメンを食べるのが夢だった。    暗い夜道で、赤い提灯を掲げた年代物の屋台に座り、夜風に吹かれながら、今まさに目の前で作られたラーメンを食べる。想像しただけでワクワクする。  実のところ、家で寝ている時にラーメン屋台のチャルメラを聞くことは何度かあった。だが、眠さと真夜中にラーメンを食べることへの罪悪感に負けて、実際に店を探しにいった事はない。存在はすぐそこにあるのに、決してたどり着けない場所。屋台ラーメンへの夢は膨らむ一方だった。
/28ページ

最初のコメントを投稿しよう!

1人が本棚に入れています
本棚に追加