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そのうちに、道の向こうに海が見えてきた。
暗い海面の遥か向こうが、僅かに光を湛えている。時計を見ると六時を過ぎていた。
夜が明けた。もう後戻りはできない。
ふっと、気が抜けた。辺りも気にせず笑い出したくなる。そうして顔を上げた時に、海辺にオレンジ色の明かりが見えた。
手打ちうどんと旗の立つ、小さな掘立小屋のような店だった。
ラーメンもいいが、せっかく本場の香川までやってきたのだ。
うどんもいい。
温かな光に誘われるように店に入った。
「らっしゃい」
カウンターの奥から声がかかる。とりあえずはベーシックなぶっかけうどんを注文し、サクサクの掻き揚げや大きなぷりぷりのエビ天などのトッピングは取らずに進む。
「はいおまち」
黄金色に澄んだイリコ出汁に、いかにも歯ごたえのありそうな、捻じれた麺が波打っている。葱の鮮やかな緑が食欲を誘う。うどんを受け取ると、奏大は窓際の席に着いた。出汁の香りが温かな湯気と共に漂ってくる。
「いただきます」
丁寧に手を合わせ、さっそく麺を啜った。見るからに艶やかな麺はつるりと喉越しがよく、コシが強くて気持ちのいいくらい歯ごたえがある。つるつると一気に啜って、懸命に顎を動かした。
「おいしい」
仕事を辞めて、こんな所まで歩いてきた甲斐があった。今ようやく心からそう思えた。
後は夢中でうどんを食べた。
湯気や香りと共に豪快に麺を啜り、上品と庶民的の丁度あいだくらいの、出汁の効いたつゆを飲む。歯を押し返す強い歯ごたえが溜まらない。出し汁は最後一滴まで飲み干したいくらいおいしい。
夜風で冷えていた身体が温まり、心も体も満たされた気分だった。
いつの間にか夜が明けていた。
窓の向こうで海が金色に染まりつつある。美しい景色だった。見ているうちに泣きたいような気がしてきて、奏大は黙って俯いた。久しぶりに、朝が来て良かったと思った。
「ハッピーバースデー、トゥミー」
今日を新しい人生の始まりにしよう。そんな決意を抱いて、最後の一口を飲み干す。
「お兄さん誕生日なの?なら、丁度よかった。これオマケね」
顔を上げると、厨房にいた白い割烹着のおばさんがお盆を手に笑っていた。香ばしい匂いが鼻をくすぐる。お盆に乗っていたのは骨付鳥だった。皿ににじみ出るくらいの肉汁とニンニクの香り、カリッと焼けた表面が食欲をそそる。
「ありがとうございます」
いつもなら遠慮したり戸惑ったりするところだが、自然と素直な言葉が出てきた。傷心に他人の優しさが沁みるようだ。軽く頭を下げて、こんがり焼けた肉を頬張る。
口の中に熱い肉汁が溢れだし、美味さに舌の付け根がジンと痺れた。
ピリリとスパイスの利いたパンチのある味付けは、ご飯が食べたくなる味だ。ひな鳥を使っているらしく、肉はどこまでも柔らかく食べやすい。
「美味しそうに食べるわね。嬉しいわ」
本当に美味しいですから。
そう口にするには、まだ勇気がなかったので、かわりに奏大は笑った。おいしい料理のおかげだ。「笑顔がヘタクソか」そう言われる自分にしては、自然に笑うことができた。おばさんも屈託のない顔で頷き返してくれる。
「ごちそうさまでした」
きちんと礼を言ってから席を立った。満たされた気分だった。仕事の疲れも失恋の痛みも癒すのは温かくておいしいご飯だ。やっぱり食は大切だなと、当たり前のことをしみじみ思った。
店を出る頃には、辺りはすっかりと朝の気配に染まっていた。
新しい朝が来た。希望の朝だ。
ラジオ体操のテーマがふいに頭をよぎる。奏大は力強い足取りで、海岸線を歩き出した。
旅は始まったばかりだ。具体的な目的地は分からない。とにかく自分にとって大切な何かを探す旅だ。風に逆らわず、まっすぐと歩いていく。自由な足取りは軽く、それゆえに頼りなくもあったが、久しぶりにゆっくりと吸い込んだ空気は、澄んでいて特別な味がした。
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