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その日も俺は、もう見慣れたマンションのドアの前に立っていた。
玄関先でインターホンを押すと、間を開けずに鍵が回る音がして、ドアが開く。
「お疲れさん。」
ドアの向こうに俺の姿を見るなり、そう声をかけてくれる
俺の歳上の〝恋人〟浅科さん。
「…お邪魔します」
そのやり取りがなんとなく気恥しくて、軽く会釈して中に入った。
玄関を上がり、リビングに通じるドアを開けると、その部屋は、空腹を刺激する良い匂いがした。
「カレーの匂いだ。」
「ありきたりで悪いけどな。」
「えー?俺なんかお湯沸かすくらいしかしないけど」
「お湯?カップ麺か?毎日はやめろよ、毎日は。」
そう言って笑いながら、浅科さんがキッチンで皿にカレーを盛り付けるのを、
俺はソファに寄りかかって眺めていた。
白いTシャツに、ジーンズというシンプルな格好をしていても絵になるのは、
きっとバランスのとれた長身で、整った顔だからだ。
そんな事を考えていたらあっという間に、
リビングのテーブルの上に
カレーと、トマトとレタスのサラダが並んだ。
〝お前、細身だから食細いのかと思ってたけど、食いっぷり良くて作りがいある。〟
いつだったか、晩飯を食う俺を見ながら浅科さんがそう言って笑った。
毎日の様に、仕事をしてきてから俺の分まで晩飯を作ってもてなしてくれる
面倒くさいのが大嫌いな俺には到底考えられない。
与えられる温かい好意に、少し居心地の悪さにも似た、落ち着かなさを感じた。
それでも嬉しいとは思う
反面、少しづつ積もっていく、消化出来ない物が、くすぶっていた。
「終電無くなるぞ。」
食事をたいらげ、キッチンの片付けをしていた浅科さんが、ふいに言った。
その視線の先の壁掛け時計を見れば、23時間近を指していた。
分かってる
分かってて、わざと言われるまでは動かなかった。
浅科さんは、いつも必ず、終電までには帰る様に俺を促す。
つまり、泊めてもらった事がまだ無かった。
「…分かってる」
俺はそう言いながら、ソファから腰を上げて
、キッチンのシンクに向かう浅科さんのすぐ横に立った。
「……何、どうした?」
薄茶色の目が、見下ろしている
俺はその目を見たまま、浅科さんのTシャツの裾を引っ張った。
「…おい、」
「……今帰るから、ちょっとだけ」
そう言って手を伸ばして、何か言おうとした口を塞いだ。
浅科さんに、その手首を掴んで引き寄せられる
「…お前な、あんまり、そういうの言うなって…」
「……何で?」
俺の問いかけには答えずに、その代わり唇に温かい感触が重なる
待ち望んだ温かさに、貪りたくなるのを必死で抑えてその唇を受け入れた。
「……っ、ん…」
唇をなぞる舌の感触に息が上がる
もっと、
とねだりそうになった瞬間、肩を掴んで引き離された。
「……っ、あ、」
「……終電、無くなる」
浅科さんが目を逸らしながら言った。
俺は、多分、今ものすごく物欲しそうな顔をしてる。
こうして、いつも遅くても終電までには帰されて、
腹の中に何かが積もり、溜まっていった。
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