ドン・キホーテと夏の終わり

1/1
2人が本棚に入れています
本棚に追加
/1ページ
 一台の自転車が坂道をほとんど落ちるようなスピードで下りていく。  しかし、自転車に乗った少年――藤井啓介の表情に焦りはない。それどころか、ちろりと舌で上唇を舐めるその表情は笑みすら浮かべていた。あわや、坂の下にある住宅の壁に激突する直前、彼は自転車を身体ごと大きく左へ沈ませ、ハンドルを切る。すっかり油の切れたブレーキがあげるけたたましい音と共に、啓介の身体と視界が重力に翻弄される。  ――ここだ。  深夜で多少視界が悪いとはいえ、二年と少し通い続けた通学路だ。目をつぶっていてもできる――とは言えないが、少なくともいつものように二人乗りでも成功する自信があった。その自信通り、ほぼ地面と平行にまでなった自転車は壁にぶつかることなく曲がり切り、その勢いを落とさずに市街地を走り抜けた。  以前、普通に通学路を走ってみたことがある。結果として5分の差があった。彼に言わせれば、5分『も』だ。それは、だ。  後輪からゴムの焼き焦げた臭いのする自転車を乗り捨て、校門をよじ登る。  たとえば今日――8月31日という日がそうだ。  校舎の大時計の針はあと5分で今日が終わることを指し示していた。この5分はただの5分ではない。あの時計の針が重なれば最後、夏休みは終わり、二学期が始まってしまう。そんなことは耐えられなかった。だから、啓介は大時計を壊そうと思って、ここへ来た。  啓介とて、十七歳の高校生だ。決して学業の成績がいいわけではないが、校舎の時計を壊したからといって本気で時間の歩みを止めることができると思っているわけではない。彼が校舎の時計を破壊したとしても、変わらずに時は進み、朝が来て、二学期が始まるだろう。それが、あたりまえだ。  それでも、啓介は『あたりまえ』に屈するわけにはいかなかった。  校庭を走り抜け、体育倉庫に飛び込む。やはり、思った通りだった。7月から、長年に渡り立て付けの悪くなった体育倉庫は鍵がかからなくなっていた。それは、今日という運命の日も同じで、啓介はスマホのライトで体育倉庫を照らし、目当てのハンマーを持ち出す。  失敗はゆるされない。外したが最後、回収して再挑戦する頃には今日が終わってしまう事だろう。二年と少しの高校生活で帰宅部だった啓介はハンマーのハンドルを握ったのは生まれて初めてだ。フォームだって、テレビで見た体操選手はグルグル回って投げていたな、程度の理解しかない。  啓介は目の前に(そび)え立つ校舎を見上げる。さながら、巨人と小人だ。  啓介は自分が大したことない奴だという事を理解している。ここ数日で彼はそれを、自分の無力さを嫌というほど痛感していた。啓介はあの日、何もできなかった。『仕方がない』と、誰かが言っていた。『今までよく支えてくれた』と、彼女の面影のある女性に泣かれた。  でも、それで終わりにしたくなかった。納得なんてしたくなかった。抗いたかった。  だから、せめて最後の夏休みを永遠にしてやろうと思った。  風切り音と回転する風景――手の中のハンマーの重さがゼロになった瞬間、啓介はハンマーを投げた。反動で倒れ伏し、揺れる夜空を見上げると、ゴガンッ!という大きな音と、ガラスの割れる音がした。  首だけ上げると、ハンマーは長針と短針の間にめり込み、時を止めていた。ぷらぷらと揺れるハンドルがなんだかおかしくて、啓介は笑った。 「ねぇ、Mr.ドン・キホーテ、満足した?」  少女が見下ろしていた。啓介は汗で張りついた前髪をかき分け、それが幻覚でないことを理解する。 「……お前、誰だよ。てか、誰がドン・キホーテだ。バカにしてんのか」  少女は唇に指をあて、わざとらしく思案し、「……しいて言うなら、あなたのファンかしらね。だから、あなたの事もけっしてバカにしてるわけじゃないのよ」と笑った。  少女の顔をじっと見る。どこかで見覚えのあるような気がするが、思い出せなかった。 「……なぁ、お前幽霊とかじゃないだろうな」 「どうして?」 「こんな深夜の学校に制服姿の女子生徒なんておかしいだろ」 「もしかしたら、特殊な性癖の女の子かもしれないじゃない。田舎で刺激を求めて~みたいな?」 「降参だ。お前は人間だ。こんなふざけた幽霊がいるわけない」 「そう? まぁ、足もあるしね。見る?」と、翻る少女のスカートから逃げるように啓介は立ち上がる。人を食ったような言動とは裏腹に小柄な少女だった。 「で、お前はなんでこんなところにいるんだ?」 「『お前』じゃなくてお姉さんと呼びなさい。これでも、あなたより年上なのよ? まぁ、一言でいうと『未練』かしらね。あたしのじゃないけれど」 「お前やっぱり幽霊じゃね? そのナリで年上とか『未練』とかさ。じゃなきゃ、頭のおかしい奴か。まぁ、俺も大概だけどな」  校舎を見上げる。大時計からはいまもパラパラと破片が落ちていた。 「あなたは『おかしく』なんてないでしょう。あなたは自分が騎士だとも、校舎の大時計が巨人に見えているわけでもない。正気だからこそ、時を止められないと知っていて、時を止めにきたんでしょ?」  少女がスマートフォンを取り出し、時刻を見せる。  ――9月1日0時5分。  今日は昨日へ変わり、夏休みは終わっていた。 「……矛盾しているよな。いっそ本気でそう信じ込めればよかったのによ。俺ってやつは何もかも中途半端だ。ただ、許せなかったんだよ。普通に時間が進んでいくのが。あいつがいた夏休みが終わって、あたりまえのようにあいつのいない二学期が始まるのがさ」 「『騎士の誓い』ってやつかしらね。いいじゃない、そういうの。あの子意外とそういうの好きだったしね。まぁ、でも安心したわ。あなたが冷静でいてくれて」  少女――彼女の姉はそう言って笑った。 「……あんたも俺を責めないのか」 「ドМなのね。あいにくあたしもドMなの、残念ね。……責めないわよ。そんな資格はないわ。だって、あたしはあの子の病気が発覚して、同じ時を生きるのが怖くなって、就職を理由に都会に逃げた臆病者ですもの」  「むしろ責められたいのはこっちのほう」と彼女は呟く。 「お互い欲求不満なわけだ」  彼女の姉は煙草を取り出し、火をつける。 「そうね。あたしはずっとそれを抱えて生きていくわ。あの子の通いたかった二学期の学校も、話に聞いてた彼氏君の無事も確認できたことだし。……あなたはどうするの? 満足は、できたの?」  紫煙と共に言葉が吐き出される。 「満足はできないよ。できるわけがない。でも、目標ができた。俺は医者になる」 「騎士よりは現実的ね。……でもあなた、あんまり学校の成績よくないって聞いていたけど?」 「それは、なんとかする。あいつと同じくらい……いや、あいつよりも頭よくなって、東京の大学にいってやる!」 「……そう、その時は訪ねてきなさいな」  笑ったその顔は、微かに彼女の面影があった。 「その時は成長した俺を見せてびっくりさせてやる。でも、今日のところは帰るよ。明日から二学期だからさ」  いつか、ドン・キホーテだと笑われないように啓介は踵を返す。いまの啓介はただの1秒も無駄にはしたくなかった。
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!